====================


1987年8月28日

貧困からの長い道のり



  一九八四年八月。あのときマニラはすでに雨季にはいっていた。少し激しい降りになると、市内のいたるところに深い水たまりができた。マビニ通のその交差点もいつものように水浸しだった。
  市民の足である乗り合いジープ−ジープニー−やタクシーが水たまりの中を馴れたハンドルさばきで走りかっていた。その客の方もまた軽い身のこなしで、車輪がはねる泥しぶきと車自体の両方を避け、するりと車に乗り込んでいっていた。そろそろ夕方のラッシュアワーに差しかかるころだった。
  そんな車の流れが途切れたとき、激しい雨に打たれながら、一人の少年が水たまりに足を踏み入れたのが通りの向こう側に見えた。少年は通りを横断するつもりらしかった。
  少年は、その体には大きすぎる白いTシャツを身にまとっていた。…いや、白と呼ぶにはあまりに汚れすぎている−灰色にくすんだ−シャツをそれが肩から脱げ落ちてしまいそうな格好でなんとか身につけていた。
  水の深みに膝の辺りまで脚を取られていたにしても、少年の動きはあまりにも鈍かった。一台のジープニーが近づき激しい水しぶきを上げて走り過ぎたとき、少年はものの見事に頭から泥水をかぶっていた。
  いまさら泥水をいとう理由は少年にはないようだった。シャツだけではなくその体ももともと清潔には見えていなかったのだ。
  実際に、少年は少しも気にしてはいなかった。ただ通りを横断する気をなくしただけだった。…空腹が少年の動きを緩慢にしているのは明らかだった。少年は、やはり鈍い動きで、元の歩道を振り返った。
  少年のTシャツの背に「アイ・ラブ・ニノイ」の文字が見えたのはそのときだった。

  ニノイと呼ばれていたフィリピンの野党指導者ベニグノ・アキノ氏がマニラ国際空港で暗殺されてからちょうど一年が過ぎたころだった。

  一九八四年。フィリピンはまだ<病める国>だった。インフレーションが激しい勢いで進行し、失業者の群れは大きくなる一方だった。夜の街には売春婦があふれ、強盗、夜盗が横行したいた。マニラは貧困という病にいまにも倒れきってしまいそうだった。マルコス政権の失政あるいは暴政に国民はとにかくうんざりしきっていた。

  いや、現実には、「なんとかなるだろう」と笑う友もいたし、日々の暮らしに疲れ、ただ「仕方がない」をくり返す友もいた。
  マルコス政権の横暴を憤り、イメルダ夫人をののしる声もあったし、だれが政権を握ってもおなじだという人もいた。
   アキノ氏暗殺真相究明委員会の不明朗な審議ぶりにこぶしを振り上げて不満を訴えるバーテンダーもしたし、フィリピン国民はこんな程度だと自嘲して見せるタクシー運転手もいた。

  あのとき、マニラは貧困という病が発する熱にうなされ始めていた。うなされながら人々は、それぞれ国と自分の明日を憂えていた。憂えながらそれぞれが、どこかに光明を見出したいと願っていた。
  「ニノイ・アキノが生きていたら…」という声を何度も聞いた。「この国もこんなに貧しくはならなかった」とある者が言い、「政権の腐敗はここまで進まなかった」とまたある者が言った。

  死んで英雄になる人物がある。支持する人々の期待が英雄像を創り上げ、生きていたならあり得たかもしれない活躍話が、その死を悼む気持ちが大きくなるに従ってふくらんでいく。
  少年のTシャツの背に見た「アイ・ラブ・ニノイ」の文字は、その死のちょうど一年後、早くも色あせかかっていたけれども、人々のニノイのかけた期待は枯れてはいなかった。
  「ニノイもやはり大金持ちの一人だが、彼には民主主義が、その必要が分かっていた」とあるインテリの友人が言った。「マルコスの悪政は数限りないが、最大のものはこの国に<中間層><中流層>を育成することを拒んできたことだ」と自らがその薄い中間層の一員であるもう一人の友人が分析した。「中間層の育たない国に民主主義はないし、ニノイはそのことを知っていた」と何度も二人はくり返した。

  一九八六年。再び訪れたマニラで友人たちは口々に「二月のリヴォルーションを日本で見てくれたか」と尋ねかけてきた。彼らの目には例外なく誇らしげな輝きがあった。「これからは少しずつ良くなるよ」と皆が語りかけてきた。「時間はうんとかかるだろうけど、だいじょうぶ」という彼らの声は静かな自信に満ちていた。

  八月二十二日付けの本紙「世界のまど」欄に、フィリピンが二十一日、国の最高額紙幣五百ペソ札を新たに発行し、そこにニノイ、ベニグノ・アキノ氏の肖像を使用した、というニュースがあった。
  五年後に再びマニラを訪れてみたいと思う。
  ニノイ夫人だったコラソン・アキノ現大統領が強権を発動することもなくその肖像がそのときまだ五百ペソ札に使われているようなら、五年後に再会する友人たちの表情は八六年秋よりも、たぶん、もっと明るくなっているはずだ。

  二十六日。フィリピンでは、ガソリンなどの値上げをめぐって、ジープニー運転手などが交通ゼネストに突入した…。


  
--------------------------------------------

 〜ホームページに戻る〜