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1987年9月15日

嫌煙、禁煙、そして棄煙



  「彼、彼女に限ってはこれこれのことは起こるまい、あり得まい」と思うことがある。
  たとえば、傍目にはこんな仲睦まじい夫婦はほかにはあるまいと見える男女がいる。こんなに真正直な男はまれだと言われる人がいる。−−ところが、その夫婦がある日突然に離婚してしまう。男が詐欺をはたらいて捕まってしまう。周囲の人間は「あの夫婦だけは離婚から無縁だと思っていた」「あの男がそんなことをしでかそうなんて夢にも考えたことがなかった」などと感想をもらす。

  およそ三年ぶりにあった、日本からやって来た友人が、おおいに驚いたことに、ノンスモーカーに変身していた。…というのはいささか大仰すぎる紹介かもしれないが、以前の彼を知る者には信じがたいほど大きな振幅の変わり様だから仕方がない。
  いや、この友人は、呆れるほどのヘビースモーカーというのではなかった。一日一パック、二十本をそれほど超えない程度の喫煙量だったし、どちらかというと、時、場所、機会をわきまえた品のある愛煙家だった。
  彼が禁煙に走るとは思わなかった、という理由は、彼のタバコの吸い方と、吸ったときの口癖だった。「ああ、今日もタバコがうまいですね。朝起きたときにうまい。午後のコーヒーどきにうまい。ディナーのあとでうまい。ああ、健康だな、と嬉しくなるんですよ」というのが彼の口癖だったのだ。…実際、一本のタバコを彼ほどうまそうに吸う人間をほかでは見たことがない。
  彼が、いわゆる嫌煙権運動に最後まで屈しない愛煙家の一人として数えられることになったとしても、それを不思議に思う者はまわりにはいないはずだった。
  その友人が何故か、タバコを吸うのをやめたのだ。何か仔細があるに違いなかった。

  「いや、あんなにむきになってタバコを吸わなくてもよかったんですが」と、苦笑まじりで友人は話し始めた。その内容は大方こういうものだった。
  初め、嫌煙家というものが世に出現したと聞いたとき彼は「なるほど、そんな人たちもいるのか」と驚いて、タバコを口にくわえる際には、いくらか周囲を気にしだした。タバコは健康に害があるというのはどうやら医学的にも間違いのないことらしかった。自分は吸わないという人たちが「他人の煙も吸いたくない」と主張するのも理解できないことではなかった。
  ところが、時が経ち、<嫌煙権>とやらが叫ばれだしてから、どうも雰囲気がおかしくなってきた。「他人の煙も吸いたくない」が「他人にもタバコを吸わせない」と声の調子が変わってきた。
  「そんな論理が通るなら」と彼は考えた。「自動車の出す排ガスは体に悪い。だから、自分は車には乗らない。できれば他人の車の排ガスも吸いたくない。だから、他人にも車は運転させない、という人たちが出てこないとは限らない」
  「自動車とタバコでは必要度が違う、という反論には意味がないでしょう。自動車こそが人間社会を滅ぼすガンだ、と信じる人たちがこの世界にはいるかもしれませんからね。−−要は、考えの筋道の立て方がどこか違っているのではありませんかね」と彼は言った。
  「タバコがうまいですね」という彼の<演技>はそのころに始まったものらしい。
  「できれば他人の煙も吸いたくない、という主張から、他人にもタバコを吸わせない、という主張への変化には民主主義とファシズムの相異があると思いませんか。吸わせない、という主張にはもう、交渉、妥協の余地がないわけですからね。…そこで、こちらも<愛煙家の抵抗>を少し試みてみたというわけですよ。ファシズムにはどうも馴染めないものですからね」

  では、どうしてタバコをやめることに…、という問いに彼は再び苦笑した。
  「昨年の秋ごろから日本では、アメリカタバコの宣伝広告がテレビや雑誌でやたらと目立つようになりました。こちらで市場を失いつづけているタバコ会社が日本に活路を見出そうというのでしょう。
  「本国でさばけなくなった商品を<意識の低い>外国の消費者に売りつけようというのは一種の植民地主義ではないか、とふと考えましてね。タバコを吸うのがなんだか急にあほらしくなりました。
  「いや、いや、元をただせば、タバコはそもそもが植民地主義の産物。コロンブスがアメリカを発見したときにヨーロッパに持ち帰ったものだそうですね。
  「ですが、<意識の低い>外国の消費者と侮られてなお吸いつづけるのも癪ですよね。…ですから、この際<体に悪い、だからやめる>、そんな当たり前なところで自分の習慣に決着をつけるのが一番自然なことかもしれない、と思ったのです。…たかがタバコ。<権利>も<抵抗>もないんじゃないかと思ったら、簡単にやめられましたよ。…つまり、ぼくの場合は<棄煙>ととでもいうことになりますかね」
  友人はこの日三度目の苦笑を見せた。
  
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