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1987年9月23日

長い雨宿り



  数年前に数日間シンガポールに滞在したことがある。
  ずいぶん雨に降られたような気がいまでもするのは、単に、筆者が南国のスコールの降り方に馴染んでいなかったせいかもしれない。
  実際、当時の日記風のメモを読み返してみても、一日中降り込められたという記述はないし、用事も予定上に片づけている。ただし、市内のあちこちで短時間、雨に足止めされたことはあったようで、メモには<雨宿り>という文字が何度か出てくる。

  高層ホテルが建ち並ぶメインストリートから少し離れた、小高い丘が連なる辺りの、木立に囲まれた一画にあったそのホテルは、観光ガイドブックふに格づければ、三つ星あるいは二つ星という程度の造りと構えだった。
  昼下がり。雨が降っていた。<ストレーツ・タイムス>か何かの新聞を眺めながら、そのホテルのロビーで雨が上がるのを待っていた。−−新聞はたしか、シンガポール市内の交通渋滞の深刻さと新たな交通規制案について報じていたはずだ。

  チェックイン・カウンターの方で数人が大きな声で話していた。良く言えば<アットホーム>な、悪く言えば<しつけの行き届いていない>南国ふうなおおらかな話しぶりだった。
  そのおおらかさに気を取られてカウンターの方に視線をやると、一人の−中国系と見える−受け付け嬢が赤ん坊をあやしていた。その赤ん坊も東アジア系の顔つきと肌色をしていたから、その受け付け嬢の子かもしれなかった。横から−こちらはマレー系と思われる−キャッシャーの女性がその子に何か声をかけていた。赤ん坊はそうとうに機嫌が悪いようだった。
  新たに二人の声が加わったとき、またそちらに目を向けた。ベルボーイと客室清掃係の年輩の女性が顔を寄せていた。四人がかりで赤ん坊をあやしているのだった。
  <おやおや、少しむずがっているだけの、たった一人の赤ん坊のためにホテルの従業員が四人も集まってこの騒ぎ…>と非難がましく思ったのは間違いだった。

  「あなたは日本人か」と受け付け嬢が尋ねかけてきた。赤ん坊はベルボーイの腕の中だ。「そうだ」と答えると、ほっとしたような表情で「それなら、どうかこの子をあやしてくれ」と受け付け嬢が言った。事情が分からない筆者は「そういうことは得意ではないから…」とあいまいに返事した。
  聞けば、事情はこうだった。−−清掃係が廊下を歩いていたらある部屋から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。泣き方が普通ではなかったので、念のためにと部屋を覘いてみると、この子が一人で泣き叫んでいた。カウンターで調べてみると、両親である日本人夫婦は午前の早い時間に外出したきり戻ってきていなかった。ホテルの従業員たちがミルクを与え、おしめを代えてやったが赤ん坊の機嫌は少しも直らなかった。見るとロビーにはあなたがいた。そこで、<あなたが日本人なら一度日本語であやしてみてくれないか>と頼んでみようということになった。

  日本語での<あやし>に効果があったというよりは、たぶん、むずがり疲れて、やがて、赤ん坊は静かになった。だが、両親はなかなか帰ってこなかった。
  激しい雨が降っていた。しかも、政府の交通量規制方針で、自由な増車が抑えられているせいで、市内でタクシーを拾うのは簡単ではないに違いなかった。

  赤ん坊はこんどはキャッシャーに抱かれていた。
  時間の進み方が速いのか、遅いのか、とにかく、赤ん坊の両親は外出したままだ。「雨なのだ。雨に降り込められて両親もどこかで動きが取れないでいるのだ」と思うにしても、この両親が旅先で乳飲み子を−無責任に−ホテルの部屋に放置したままにした、という事実はもう動かしようがなかった。

  <しつけ>が悪かったのはホテルの従業員たちではなく日本人夫婦の方だった。

  「あら、ぼく、ここにいたの?」
  やっと戻ってきた母親がカウンターの向こう側でキャッシャーに抱かれている赤ん坊の方に手を差し出しながら放ったこの的外れな言葉をどう通訳したものか、「チップ、チップ」と怒ったような声で言いながら一〇〇シンガポールドルを従業員たちに突きつける父親の真意をどう説明したものか−−。

  いまでも、シンガポールではずいぶん雨に降られた、という思いがして仕方がない。

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