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1988年2月10日

戯作者 恋川春町



  江戸時代の戯作者、恋川春町については実はあまり知られていないという。
  作家、井上ひさしの<戯作者銘々伝>を参考に、“知られている”部分を先に紹介すると−。
  春町にはその生涯に、洒落本、黄表紙三十作があるほか、絵にも才があって、自作本のほとんどの挿絵を自分で描いた。
  本名を倉橋格(のぼる)といい、養子の身ではあったが、駿河小島松平家一万石の江戸留守居役を務めるれっきとした武士だった。
  黄表紙作者になる前は、酒上不埒(さけのうえのふらち)という名で狂歌を作ってもいた。
  春町は<黄表紙の始祖>と呼ばれているそうだ。それまで子供相手に書かれていた、何の知恵も工夫もない草双紙(青本)を<金々先生栄花夢(えいがのゆめ)>と<高慢斎行脚(あんぎゃ)日記>の二作で、大人も楽しめる絵本に格上げした功績からだ。
  だが、春町は一七八九(寛政元)年、<鸚鵡返(おうむがえし)文武二道(ぶんぶのふたみち)>が寛政の改革を実施していた老中、松平定信の咎めを受け、およそ半年の“謹慎生活”のあと、自害して果てた。−藩の手で殺害されたとの説もあるそうだ。

  春町には、秋田佐竹藩二十万五千八百余石の江戸留守居役、平沢平格(へいかく)という友人がいた。
  平格は、狂歌師としては手柄岡持(てがらのおかもち)、黄表紙作者としては朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)の名を持っていて、黄表紙三十四作を書いているが、春町“自害”の前年、一七八八年に、代表作<文武二道万石通(まんごくどおし)>の政道批判が原因で、主家佐竹藩主の叱責を受け、作者を廃業している。

  ということは、友人喜三二の発禁本<文武二道万石通>の続編に当たる<鸚鵡返文武二道>を春町が書いたのは、もちろん、発禁、咎めを覚悟したうえでのこと、ということになる。しかも、表題中の“鸚鵡”は松平定信自身の著作<鸚鵡言(おうむのことば)>のモジリだった。寛政の改革を茶化す意図がそれだけでもありありと見えていたわけだ。
  春町に関する「なぜだ?」がここから始まる。−なぜ、あえてそんなことをしたのだ?

  リトル東京の日米劇場で五日、春町と喜三二も登場するミュージカル<歌麿>を観た。
  いまから二百年前、春町、喜三二、蜀山人・大田南畝、山東京伝・岩瀬醒(さむる)、宿屋飯盛(やどやのめしもり)らと同時代を生きた浮世絵師、歌麿の、芸術家として時代の頽廃を生きなければならなかった宿命を描きながら、現代にメッセージを送る、というミュージカルだった。
  “主役”が歌麿だったことは言うまでもないが、登場人物の中で最も特異な存在と見えたのは、むしろ春町だった。喜三二や南畝ら武士たちが定信の威嚇を受けて次々と筆を折っていくなか、あえて権力を挑発し、死への道を突っ走った春町の真意はどこにあったか−。いったいなぜ、春町だけが自分をそこまで追い込んだのか−。

  時代の頽廃、天明〜寛政期の文化的爛熟を最もよく体現していたのは大首絵美人画の歌麿、あるいは、洒落本<通言総籬(そうまがき)>で手鎖五十日の刑をくらった京伝だったかもしれないが、そんな時代と最もよく対立しえたのは春町だったに違いない。
  春町の死因が“自害”だったにしろ“殺害”だったにしろ、その理由が<最後まで筆を折ろうとしなかった>ことにあるのは確かだと思える。−<頽廃・爛熟のいったいどこが悪いんだ?>

  現代へのメッセージは、よく知られている大首絵ではなく<太閤五妻洛東遊観之図>で徳川体制軽視の姿勢を見せたとして入牢手鎖の刑を受け、のちに病死した歌麿からよりは、春町の方からより大きく聞こえてくるような気がする。

参考サイト:<江戸時代の戯作 黄表紙>

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