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1988年3月9日

富士川昇一座



  あえて<昭和>を使って語る方が時代の雰囲気がよく伝わりそうな気がする。−実際、いまから三十年ほど前の日本は、あの大戦から十余年。明治、大正と受け継がれてきていた“日本的なる佇まい”がまだ色濃く暮らしの隅々に残っていたように思う。

  富士川昇という役者が率いる旅回りの一座があった。昭和二十年代の後半から三十年代の初めまで、九州北部ではかなり人気があった一座だったはずだ。

  母方の身内は早死にが多かった。母の父親は筆者が生まれる前に亡くなっていたし、母の弟も、志願して出兵、ビルマで戦死していた。わずか数か月の差で“戦後生まれ”に分類される筆者は、もちろん、この叔父にも会っていない。母の妹の顔は何度か見たことがある。だが、記憶の中の叔母はいつも、九州の佐賀市から少し離れた田舎家の二階で彼女の母親(筆者の祖母)に世話されながら病床に伏していた。この叔母とは言葉も交わしたはずだが、どんなことを話したかは覚えていない。叔母は亡くなったとき、まだ二十代だったと思う。母は昔よく子供たちに「わたしには帰るところがない」と語ったものだった。

  母方の祖母はそれでも、筆者が小学校の中学年になるまで生きてくれていた。
  住んでいた佐賀の町からバスに乗り、母の使いとして、兄や弟といっしょにこの祖母をよく訪ねたものだ。祖母の住まいには、いつも息苦しいほど田舎の匂いがあった。雨の時期には田を浸す水の匂い、稲刈りの時期には籾殻の焼ける匂いが、祖母の一人暮らしの家を覆っていた。

  夫を早くなくし、一人息子と娘の一人にも先立たれ、田舎で侘び住まいしていたこの祖母のただ一つの楽しみは、残っているただ一人の子である筆者の母を訪ね、夜には近くの喜楽座という芝居小屋にかかる旅回りの芝居を見に行くことのようだった。

  孫の一人が意外にも旅芝居が好きで、いつも見物につきあったのは、いま思えば、祖母にとってはずいぶん嬉しいことだったはずだが、連れて行ってもらっていた当時の筆者は、舞台の上の役者たちの熱演と小屋の雰囲気にただただ魅せられていて、そんなことは思いもしていなかった。

  幕間の歌謡ショーでは、どの一座でも子役スターが美空ひばりのヒット曲をじょうずに歌ってたくさん“おひねり”を集めていた。切り狂言では、座長がそれこそ、これが一世一代の、と言わんばかりの熱演で、夜ごと、客の喝采、涙、笑いを誘っていた。

  舞台の取っ付きに両肘をつき、顎を支えながら待つうちに、拍子木が打たれる。幕が引かれて風をはらみ、フットライト用一〇〇ワット裸電球の焼けた匂いを筆者の鼻先で煽っていく…。

  富士川昇一座は、子供の目にも、座長の演技に風格があった。のちに知ったことだが、「瞼の母」の忠太郎も座長はじょうずに演じたし、「桐一葉」(坪内逍遥)からとったと思われる芝居の一場面でも、小屋を満たした観客をたっぷり泣かせてくれたものだった。

  この一座のある年の最終興行の千秋楽に、祖母に連れられて出かけたことがあった。今でいうなら“ファン感謝デー”。年の瀬も行き詰ったその夜芝居を見に来てくれた観客に、一座は謝恩のくじ引きを用意していた。
  祖母から預かり、筆者が手にしていた切符の半券の一枚に書かれていた数字は−いまでも忘れはしない−“一〇三三”。
  座長が声を高める。「特賞、“豪華洋服箪笥”の当選番号は…」

  「ばあちゃん、これじゃないか」と半信半疑で差し出した半券を奪うようにつかんだ祖母は、数字を確かめるやいなや、舞台めがけてものすごい勢いで駆け出していった。
  十二月の寒い夜、深夜近く、近所の八百屋を起こしてリヤカーを借りたあと、人通りの途絶えた暗い道を、家族揃ってずいぶん浮かれた気分で、その“豪華洋服箪笥”を我が家まで運んだと記憶している。
  祖母の興奮は数日間はつづいたはずだし、そのあいだ、家族のだれもがやはり心楽しかった。

  神武景気、岩戸景気、テレビ時代の到来がすぐそこに迫っていた頃、地方にはそういう暮らしがまだ残っていた。
  何年かが過ぎ、我が家から<贈 富士川昇>の文字入りの洋服箪笥が消えたときに、たぶん、一つの時代が終わっていた。「いい時代だった」とは言わない。だが、今でもみょうに懐かしい気がすることがある。

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