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1988年3月31日

原っぱ野球少年



  小学校の高学年から中学校の二年生までは、大変な野球少年だった。それも、草野球とさえ呼ぶに値しない、文字通りの“原っぱ”野球に熱中していた。
  もちろん、指導者などはいなかった。少し年長の、気が走る少年が自然にその役を果たしていた。役の何たるかを自覚した少年はスポーツ新聞を読み、ルールブックに目を通し、たまには、野球理論書を年少の子らに解説してやったりさえしたものだった。

  だが、当時の一般の暮らしは、いま思えば、決して豊かではなかった。
  野球少年たちが持ち寄る道具の中には、てのひらに当たる部分に申し訳程度に皮が張られたズック地のグラブがあったし、同じくズック地のスパイクシューズは、下ろしたてなのにたちまち、親指の位置に穴があいてしまった。形だけはユニフォームに仕上げてあった野球着は、小石が混じった原っぱのホームベースに滑り込めば、無残に布地が裂けてしまった。

  そんな野球ができる原っぱがあちこちにあった。だが、野球ができる状態に原っぱを保つのは簡単ではなかった。苦心の末にやっと築いたピッチャーマウンドは、ひと雨降れば流れてしまったし、プレート代わりに埋め込んだ薪も情けなくむき出しになったものだ。
  夏になれば、草の成長に泣かせられた。せめて内野に当たるところだけでもと、草刈り、草むしりに精を出すのも五月まで。四つのベースの周囲ぐらいはなんとか、と言っているあいだにも草は伸びつづけ、真夏の練習は半分以上の時間を、草の中に行方知れずになってしまったボールを探すことで費やした。
  それでも、めげることなく、野球少年たちはバットを振り、打球にくらいつき、原っぱを走り回った。
  秋になり、日が短くなって、夕食後の練習がままならなくなる頃は、みょうに寂しかった。今度は暗がりのせいで見失ったボールを遅くまで探しつづけなければならなかった。
  冬は手のしびれを厭いながら、なおもノック球を追いかけた。ぼたん雪が舞う中を飛んでくるボールは鉄砲玉のように速く見えた。
  春はいい季節だった。枯れ草だった原っぱに引いた石灰の白いラインが鮮やかだった。暖かくなるにつれ、年長者が投げる速球を受けたときのてのひらの痛みも小さくなっていった。体が軽くなっていく感じが自分でもよく分かった。少年だけの勝手な練習に疲れてごろんと寝転んだ鼻先で、甘酸っぱい草の匂いがした。原っぱはまた、緑が濃くなる季節になっているのだった。

  福岡で<西鉄ライオンズ>というプロ野球のティームが活躍したのはそんな時代だった。
  あの頃、九州の原っぱ野球少年たちはだれでも、おそらく何度かはテレビで見てもいたし、新聞の写真を見て研究もしたことがある、ライオンズのひいきの選手のバッティングフォームなどを−たぶんまるで見当違いに−模倣して、それぞれ悦に入っていたはずだ。
  一番センター高倉、二番ショート豊田、三番サード中西、四番ファースト大下、五番レフト関口、六番ライト玉造、七番セカンド仰木、八番キャッチャー和田、九番ピッチャー稲尾。−−ピッチャー川崎、河村、島原、西村、大津、若生、キャッチャー日比野、セカンド滝内、ファースト河野。監督三原。


稲尾和久投手
(From:http://www.nikkansports.com/news2/baseball2/master/column/column03.html)


(左から)大下、豊田、中西、関口
(From:http://www.toyoda-yasumitsu.com/toyoda/top_main.htm)

  原っぱ野球少年たちにとっては近所の草原が彼らの平和台球場だった。
  今年もプロ野球の開幕が近い。


平和台球場正面外観
(From:http://www.coara.or.jp/~itoshima/inao.html)


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