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1988年4月15日

日米貿易摩擦小史



  日本と米国とのあいだにいわゆる貿易摩擦というものが生じたのは一九六〇年代後半のことだ。“戦後”経済の復興に努めてきた日本が最初に米国と衝突したのは繊維の分野においてだった。<日米繊維摩擦>と名づけられた。
  六九年、次期大統領選挙での再選を狙うニクソン大統領が、当時米国繊維市場を脅かしていた日本を標的に、摩擦を政治問題化することに成功、共和党の人気取りに利用した、という見方が残っている。
  その頃、日本側では、佐藤栄作首相が“一九七〇年安保”問題を乗り切るためにも、日米間の話し合いによる沖縄返還を実現する必要に迫られていた。“返還を実現した人物として政治史に名を残したい”という首相個人の欲望も強かったと言われている。
  日米繊維摩擦は結局、輸出総量を日本が調整することで収束した。だが、その後、米国の繊維業界が立ち直ったわけではない。当時は強力だった日本の繊維業界も香港、台湾、韓国などの成長に押されて、衰退の途をたどっていった。

  第二期とでもいえる日米間の貿易摩擦は七〇年代、日本の経済発展が本物となり、世界市場での競争力を十分に身につけてきたころに発生した。鉄鋼、テレビ、工作機械、VTR、自動車と切れ目なく、折り重なるように表面化した。
  耐久消費財の最後の砦である自動車の分野ではまだ結論は出ていないが、そのほかすべての分野で米国産業は、政府に日本などの“攻撃”から身を守ってもらいながらも、徐々に弱体化を進めていった。
  他国の輸出制限を“政治的に”勝ち取っただけでは国内産業は守れない、ということなのだろう。
  そうした流れの中で、、弱体化していく産業を、外国製品の輸入規制という形で保護した結果、世界市場での競争力をなくした、つまりは、高価で品質が劣る自国産の商品を買わせられることになった消費者全体の不利益はあまり数量化されることがなく、つまりは選挙の争点になることがなく、政治問題化することもない。

  八〇年代、特に後半に入ってからの第三期摩擦は局面を新たにした観がある。
  守りの米国が“攻め”に回ったのだ。米国の日本に対する市場開放要求が多くの分野からいっせいに上がってきた。日本の経済制度、貿易慣行、政策などについての積年の不満が爆発し、改善要求もかつてなく強いものになっている。

日本の半導体市場への外国系企業の進出が制限されていること、日本の半導体が第三国でダンピングされていることを理由にしてとられた米国の報復措置の手早さは、従来の他分野での摩擦では見られないものだった。

  日本の公共事業市場開放交渉における米国側の当面の狙いも、ハイテク技術を導入する空港ターミナルビルの工事入札権を確保することにあったとも言われている。

  一方、米国が牛肉とオレンジの輸入自由化を強力に迫るのは、コメを視野に入れてのことだという見方がある。
  国内繊維産業を“犠牲”にして沖縄返還を取った佐藤首相の判断。牛肉とオレンジの流入を防ぐつもりで、少なくとも表向きは、ハイテク空港ターミナルの工事への入札権で譲歩した竹下首相の外交手法。−政治と経済の思惑が両国間で交錯しつづけている。

  その牛肉・オレンジ問題は、八日の米国によるガット(General Agreement on Tariffs and Trade 関税および貿易に関する一般協定)への提訴で最終局面を迎えようとしている。

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