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1988年4月26日

立ち退き補償



  米上院本会議は二十日、賛成六九、反対二七の大差で、いわゆる日系人戦時立ち退き補償法案を可決した。上院案とほぼ同様の法案がすでに昨年九月に下院を通過しており、今後両院協議会で調整が行われたあと、同法案はレーガン大統領のサインを求め、ホワイトハウスに送られることになる。


カリフォルニア州マンザナー日系人収容所
(From:http://www.cr.nps.gov/history/online_books/internment/report.htm)

  財政難を理由に同大統領はこの法案に拒否権を発動するのではないか、との見方もあるが、状況はまだ流動的だ。

  いわゆる転住所の体験者約十二万人のうち、約六万人がいまも健在だといわれている。同法案に従えば、補償金額は一人およそ二万ドル。総額で一三億ドルに達するもようだ。

  <ロサンジェルス・タイムズ>紙は二十二日づけ社説でこの補償問題に触れて次のように述べている。

  米陸軍第四二二歩兵連隊戦闘部隊所属、カズオ・マスダ軍曹がイタリア中部のアルノ川で、夜間渡河パトロールの指揮中に戦死したのは一九四四年だった。同軍曹はこれにより殊勲十字章を授与されている。だが、その死が伝えられたとき、同軍曹の両親と姉妹が暮らしていた場所は、アリゾナ州のある日系人収容所の中だった。
  のちにオレンジ郡の農場に戻ったとき、マスダ軍曹の家族は、まだ日系人に反感を抱いていた付近の住人たちの脅迫と差別に耐えなければならなかった。近くの墓地は最初、同軍曹の埋葬さえ拒んだのだった。“ヴィネガー・ジョー”と呼ばれていたスティルウェル少将がこの話を耳にして家族の農場を訪れ、同軍曹への死後授章を行ったのは一九四五年だった。
  このとき、同少将に同行し、サンタアナ・ボウルでの集会で「海浜の砂に吸われた血はみな同じ色をしていた」と述べ、マスダ軍曹やそのほかの日系兵士の愛国者ぶりを賞賛した退役大尉がいた。すでに映画俳優になっていたロナルド・レーガンだった。
  「あの微妙な時期に二人が来てくれたことで、地元の雰囲気がすっかり変わった」と先日、同軍曹の姉、ジューン・マスダ・ゴトウさんが証言している。
  同軍曹の出身地であるファウンテンヴァレーには現在、カズオ・マスダ中学校がある。だが、破壊分子だとのレッテルを貼られ、住んでいた西海岸を追われて、転住所に収容された日系人たちにとって、第二次大戦はまだ終わってはいない。かりに、暮らしはなんとかなっていても、当時受けた恥辱はまだ消えてはいないのだ。
  退役大尉であるレーガン大統領にいま、米国史上最悪の不正義事件の一つとなったこの(日系人収容)問題で、改めて古傷に手当てをほどこし、償いをしなおす機会が与えられている。大統領は、たとえ部下に拒否権発動を勧められても、それを無視して法案に署名、同法を成立させるべきだ。
  この補償法で、間違った歴史の一ページを正すことができるのだから。
  議会の戦時市民強制収用に関する調査委員会は五年前に、日系人を拘留しなければならないような軍事的必要は当時なかったし、日系人がスパイ活動に関連した事実もなかったと結論づけ、日系人の排除は<人種的偏見、戦時ヒステリー、政治指導上の怠慢>によって引き起こされたもの、という見方を明らかにしている。
  大戦後に生まれた米国人には古代の出来事のように聞こえるかもしれないが、この古い不正義を償うことは、「自分たちは間違ったことはしていない」という日系人の長い間の主張が正しかったということを米国政府が公式に認めるという点で、重要な意味を持っているのだ。

  立ち退き補償問題に関する、この社説以上に明快な支持表明はないと思える。
  

参考サイト:日系アメリカ人強制収容

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