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1988年5月19日

“やっぱり”文化論



  雑誌は仕方がない。だが、学生時代からこれまでを振り返ってみても、本を捨てたという記憶はない。また、たぶん幸いなことに、一度買い求め、読み終えた本を古本屋に売った経験もない。わずかに心を残しながら、何冊かを友人の書棚に残して住まいを移したことがあるぐらいだ。

  “遅読”だから、読み漁りができる方ではなかったが、それでも、本はいつの間にか書棚を満たしていた。
  二十代には、自分が読んだ本をすべて収めた書斎をいつか持ってみたい、と考えたこともあった。窓辺に微かに春の日が当たるその書斎で、数十年前に読んだ本たちの背表紙を眺めながら過ぎ去った日々を静かに回想する−−。そんなことが、なにやらこれ以上はない老後の暮らしにさえ思えていた。

  現実には、仕事で利用するというようなことでもなければ、再読の機会がある本はめったにない。最後までは読み通すことができなかった本も少なくないし、表紙を見ても、その内容が思い出せない本も数知れないような気がする。
  中には「また買ってしまった」という本もある。紛失したか行方が知れなくなった本を、二度と読みはしないことを承知の上で買ったものもあれば、昔一度読んでいたのに忘れてしまって、書店の棚からまた選び出し、結局、値段だけが異なった同じ本を今昔二冊、自分の書棚に並べてしまったこともあった。

  三十代の半ばに近づいてから、妙に身が落ち着かなくなった。日本の外で月日を過ごす機会も増えた。だから、そんなふうにしてたまった本も九州の両親の家に預けたままになっている。
  本を買うこと自体が少なくなった。フィリピンでの仕事の際には、タガログ語の勉強に時間を割いたし、ロサンジェルスでは、英語に馴れるのに忙しすぎて、自ずと読書の時間が減ってしまった。

  森本哲郎著<日本語 表と裏>という本がある。奥付によれば、単行本は一九八五年三月に新潮社から刊行されたということだ。最近、その文庫本が出た。数年ぶりに出合う懐かしさもあって、先日、小東京の書店で迷うことなくその文庫本を買った。読んだのはこれが三度目ということになる。


森本哲郎氏
(From:http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaiyo/01simpo.html)

 ヨーロッパでは言葉の明瞭であることを求め、曖昧な言葉を避ける。日本では曖昧な言葉が一番優れた言葉で、もっとも重んぜられている。
  <日本語 表と裏>にそんな引用がある。四百年以上も昔、安土・桃山時代に日本にやって来たポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが書き残した<日欧文化比較>という小冊子の中にある文だそうだ。時代を超えてりっぱな現代批評になっているところがすごい。

  “やっぱり”“やはり”というずいぶん便利な日本語がある。「やっぱり雨が降ってきた」というように使う。この場合、“自分が予想していたように”“他の人がいっていたように”“天気予報で予告していたように”などの意味がある。

  森本氏は「そう、日本人の特質は、常に何かを予想し、予期しているということなのである」と断定して、「それはある種の運命観といってもいい。日本人はいつもその予感の中で生きているのだ」とつづけている。
  “やっぱり”の基礎には、日本が「世界でも珍しいほどの同質社会であること」がある、と森本氏は分析して見せ、その社会では「おなじことがいいこと」であり、「仲間外れほどつらい仕打ちはない」わけで、“やっぱり”を多用するのは、この言葉が、仲間外れにされる「恐怖を無意識のうちにいいあらわしている」からだと述べている。
  森本氏は“やっぱり”が「日本の主語だと思う」と言う。“やっぱり”つきでしゃべるとき、日本人は“自分”という主語のほかにもう一つ、“日本”という、あるいは“世間”という大主語が無意識のうちに予想され、前提されているのだ、と結論づける。

  三度目なのに、読むたびに新たな発見がある、と感じるのは、筆者の貧しい記憶力のせいだけではなくて、“やっぱり”これがいい本だからなのだろう。
  
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