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1988年6月3日

日本語を教える



  戦後何度目かの“日本語ブーム”だそうだ。
  だが、今度のブームはこれまでのものとは少し様子が違うらしい。従来のもののように、外国語と比較して上で日本人が日本語の良さを見直したり、不便さを見つけたりしながら、日本そのものを“再発見”するというようなものではなくて、<日本人が外国人に教える日本語を学ぶ>という、すこぶる能動的な形でのブームなのだそうだ。

  それにしても、庶民にいたるまで、日本人が外国人に“善意で”日本語を“教える”ことにこれほど熱心になったことがかつてあっただろうか。

  不幸なことに、日本語は−学ぶにしても相当厄介な代物だったという記憶が個人的にはあるが−教えるとなると更に頭が痛くなる言語だという。その極めつけが格助詞「が」と係助詞「は」だ。
  作家の井上ひさし氏の本に<私家版 日本語文法>というのがある。その厄介で頭の痛い日本語文法を、井上流に柔らかく解説したものだ。


井上ひさし氏
(From:http://www.asahi.com/osaka/116/020303d.html)

  それによると、日本語は単語の順序で文法的な関係が決まる孤立語(中国語など)でも、単語の語形が変化(屈折)して文法的関係が決まる屈折語(ヨーロッパの言語に多い)でもなく、朝鮮語などとともに、<助詞>など特定の単語が付加されて文法的関係を表していく膠着語に属しているという。助詞、特に「が」と「は」に関して明確な定説がないのは、「これまでわが国の大部分の文法学者たちがヨーロッパ産の言語理論で、ということは屈折語のきまりで膠着語である日本語を捉えようとしていたから」と井上氏は言う。
  毎日文章を書いていて、この「が」と「は」の使い分けに悩ませられない日はない。「が」を選ぶか「は」にするかは、結局、文の流れの中の“感じ”で決めることになる。−このことについては、井上氏が言うように“定説がない”のだから仕方がない。

  井上氏に従って、いくつか“説”を挙げることはできる。
  1)話題を提供する場合に、最初に話題を示すときには「が」を用い、その後は「は」を用いる。すなわち、「が」は未知の新しい情報、「は」は既知の古い情報を示す(大野晋)
  2)「が」を小さな、せまい部分に、「は」をより大きなひろい部分に使って、組み合わせる(三浦つとむ)
  3)「は」と「が」があるとき、その文の情報の中心は「が」が担う(川本茂雄)
  4)「が」は強く指し示し、「は」はおだやかに提示する(井上ひさし)
  それぞれに「なるほど」と思わせられるが、文法的決まりとしては、いま一つ明確さにかけているようだ。

  森本哲郎氏はその著<日本語 表と裏>の中で「春ガキタ、冬ハ去ッタ」という例文を取り上げ、「ガ」と「ハ」の組み合わせを変えて様々に考察しているが、ついには「言語とは何と玄妙不可思議なものであろうか」と、文法的追究を放棄してしまっている。
  その森本氏によれば、「象ハ鼻ガ長イ」の主語は何か(<日本文法入門>三上章)という命題に文法的解答を出しえた学者はまだいないらしい。

  さて、日本語を外国人に教えるときに避けては通れないこの「が」と「は」の問題、どこか、国内問題を解決せずに国際社会に飛び出して右往左往している日本を思い出させるところがある。“外国人に日本語を教える”ブームの中で、「ヤッパリ日本語は摩訶不思議」との印象を与えるだけにならなければいいが−。

  春ガキタ、冬ハ去ッタ  春ハキタ、冬ガ去ッタ  春ガキタ、冬ガ去ッタ  春ハキタ、冬ハ去ッタ
  この“日本語ブーム”が外国人の日本理解を真に助けるものとなるよう期待したい。

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