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1988年8月29日

定説 「は」と「が」



  「一体に文化の輸入には…、ないところに輸入して困らないもの、あった方が便利なものと、無理やりつくるものだから非常に変になってくるものとある」と作家で文芸評論家の丸谷才一氏が言っている。その「変になってくる」ものの一つが日本語文法だそうだ。(以下 大野晋・丸谷才一「日本語で一番大事なもの」から)

  丸谷氏と対談した言語学者の大野晋氏は「その最たるものが“主語”で、向こう(ヨーロッパ/筆者註)で必ず主語を立てるから、日本語の文にも常に主語があるはずだということになった」ことが日本語文法の混乱の始まりだという。大野氏は古来「日本語は、動詞が人称によって変化することはない」し、「主語を立てて人称を区別する必要はない」ことから「ヨーロッパ風の意味では、日本語には主語というものがない」と断じている。

  以前、この<時事往来>の欄に「ウナギ文」と題したエッセイが掲載されたことがある(久我氏の投稿)。―友人とレストランに入る。友人に「君は何にする?」と尋ねると、友人が「ぼくはウナギだ」と答える。
  この「ぼく」は絶対に「ウナギ」ではなく「人間」であり、この短文は、内容としては間違っている。だが、文法的にはまったく正しいものだ。
  このような場合に、日本人の意識の中で矛盾することなく「ぼく」と「ウナギ」を結びつけているのが助詞「は」らしい。
  大野氏によれば、日本語の助詞というのは本質的に「話題の物事や動作を操る“操り方を表す”言葉」で、従って、助詞「は」にも「主格・目的格・場所格」などの特別な限定はない。「は」は、その上にある言葉を「話し手も相手ももう知っている題目として“話し手が扱う”」ことを示し、その下にその題目についての「答え、説明を要求する」働きを持っているにすぎない。
  つまり、「ぼく“は”」は「ウナギ」の主語ではなく、「は」は、「君と一緒にこのレストランに何かを食べに来ている“ぼく”」を“話題として提供”し、その「ぼく」がどうするのかの「説明を要求」している、というわけだ。だからここでは、その「ぼく」が「ウナギ(を食べるの)だ」という事情が理解されれば、この文は成立する。主語と述語の関係などはないわけだ。
  一方、同じ状況にあって、「ぼく“が”ウナギだ」という文が内容的にも文法的にも落ち着かないのはなぜか。
  大野氏は、「が」は「が」の下の方に「本体となるもの、あるいは既知扱いのもの」があって、「が」の上の言葉は下の「本体」に「未知」の情報や「発見」などのさまざまな「形容を加える」のだ、という。
  だから、「ウナギだ」が「既知扱い」される限り、たとえば、「君があのとき食べたのがウナギだ」という文は成立しても、「ぼくがウナギだ」はおかしいことになる。なぜなら、前者が、ウナギがどういうものかは分かっているが、見たか聞いたか食べたかはっきりしない相手に向かい「君があのとき食べたあの」と「発見」を迫るのに対し、後者の「ぼく」はこの場合、「君と一緒にここに来たあの“ぼく”」であり、このため、「が」の上と下が同時に「既知扱い」された形になっているからだ。
  「ぼく“が”ウナギだ」が成立するためには、このウナギを注文したのはだれかなどと問われているとき、つまり、「ぼく」が「未知」であるときに限られる。―この「ぼく“が”」もいわゆる“主語”ではない。

  助詞「は」「が」は「既知」と「未知」の情報をつなぎ合わせるが、ヨーロッパ言語風の主語を作る機能は持ち合わせていない―など、日本語独特の文法の考察から大野氏は、日本人は「人間関係において絶えず相手を意識して、相手を立てて、相手が知っているか、知らないかということを絶えず考え、それに合わせようとする」民族だとの結論を出している。

  言語は人間社会の構造を反映して、時代とともに変化していくという。さて、現代日本人にとって、日本語の“主語”の未発達が意味するところは何か。

  大野氏の業績で、日本語文法もやっと輸入された理論から自由になる時期を迎えているようだ。

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