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1988年9月21日

福岡ホークス



  昭和三十年代の初め(一九五五年〜)、プロ野球の西鉄ライオンズが黄金時代を築いたころの福岡平和台球場の外野席にはまだ、申し訳程度に芝生が敷かれただけの緩やかな斜面があった。
  どこか川原の土手を思わせる趣がある斜面だった。車座にこそならないものの、家族連れがのどかに弁当を広げたし、試合の経過に無頓着な幼い子供たちは大きな笑い声を上げながら斜面を自由に転がりまわった。生意気盛りの中学生は仰向けに寝そべって、試合開始前の練習を眺めたし、酒に酔った中年男が、たとえば、レフトを守る関口の背に勝手に話しかけながら、足を滑らせ転倒したりもした。

  ライオンズがあろころ福岡の地で日本一のチームになれた理由を挙げるのはそう難しいことではない。中西、豊田、稲尾などの素質に恵まれた優秀な選手を獲得して立派に育てたことはいうまでもなく、前にジャイアンツを追われていた“智将”三原が監督を引き受け、そのジャイアンツの監督だった“宿敵”水原への競争心を張りにして選手を指揮したことも大きな要素となっていた。
  だが、忘れてはならないのは、当時のパシフィック・リーグの覇者、南海ホークスの存在だ。対ホークス戦の平和台球場はいつも満員だった。木塚、飯田、岡本、蔭山、広瀬、寺田―。伝統の“百万ドルの内野陣”を誇るこのチームは、少年だったわたしの目にも、九州の選手たちとはひと味違う、洗練された選手たちがいつもイキなプレイを見せてくれたものだった。宅和、皆川―。投手陣に立教ボーイ杉浦が加入してその洗練度にいっそう磨きがかかった。ジャイアンツの川上と並んで球界のトップ打者とされていた“プレイボーイ”大下はともかく、“いなか球団”西鉄の若手選手たちが“打倒ホークス”の思いに燃えたことは疑いない。
  いや、福岡の選手たちが“日本一”になるためには、最後には“球界の覇者”ジャイアンツを倒さなければならなかったのだが、その前にはいつもグリーンのユニフォームの軍団が立ちはだかっていたのだった。
  平和台球場の外野スタンドの斜面が対ホークス戦でいつも隅々まで埋め尽くされたのは、ファンがまた選手たちとおなじ思いでこの大阪のティームを眺めていたからだった。
  打倒ホークス。打倒ジャイアンツ。時代は、福岡がそろそろ“戦後”の装いを解き、再び九州の中心都市として機能し始めようとしているころだった。

  その南海ホークスの“身売り話”がまとまった。
  買い手は日本最大のスーパーマーケット・チェイン<ダイエー>(本社神戸)だ。同社の中内社長は<ホークス>という愛称を残すことと選手の待遇改善を約束し、杉浦現監督に引きつづき新ティームの監督を任せることを決めた。福岡が新たな本拠地となることも確定した。

  あのホークスがあの杉浦に率いられて福岡に移動する。

  ライオンズが埼玉に去って以来、「九州に再びプロ球団を」という声が地元で絶えたことはなかった。九州の野球ファンが<ダイエー>による南海ホークスの買収と福岡への移転をどう受け取っているかを問うのは愚問といえるだろう。西鉄ライオンズの黄金時代をパ・リーグで下支えしてくれていたともいえるあの南海が“強いホークス”の復活を賭けてやって来るのだ。四十代以上の野球ファンがこれを歓迎しないわけはない。


本拠地大阪球場でファンに別れを告げる南海ホークスの杉浦監督と選手たち
(1988年10月15日)
(From:http://osaka-nikkan.com/lib/obs/01news/1112.html)

  平和台球場の外野の“土手”はとうになくなり、いまではグランドには人工芝が敷かれている。中内社長は福岡にドーム球場を築いてそこを本拠地にするという構想さえ明らかにしている。
  だが、“土手”の温み―。現実の球場の体裁がどうであれ、<福岡ホークス>がもしそんな温かさを持つ球団になってくれたら―。

  ファンの熱狂がいまから見えるようだ。

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