====================


1988年9月29日

九州年号 多元的史観



  〔年号〕 年につける称号。漢の武帝の時に<建元>と号したのに始まる。わが国では六四五年に<大化>と号したのが最初。古くは辛酉・甲子の年のほか、即位・祥瑞・災異その他の理由によってしばしば改めたが明治以後は一世一元となり一九七九年元号法を公布。
  〔元号〕 年号に同じ。
  (広辞苑・第三版)
  聖徳太子の霊を祀るために法隆寺金堂に安置されてきたとされる<釈迦三尊像>の光背に刻まれている銘文の読みと解釈について疑義があることが一般に知られるようになったのは、たしか、いまから十五年ほど前のことだ。梅原猛氏の著書<隠された十字架>が引き金になっていたと記憶する。


法隆寺金堂 釈迦三尊像
(From:http://www.kcn.ne.jp/~kingyo/KONDO.htm)

  その疑義は、突き詰めれば、銘文中の<上宮法皇>は、長く信じられてきたのとは異なり、聖徳太子ではないのではないか、ということだった。奈良県桜井市の“ウエノミヤ”が聖徳太子のゆかりの地とされているが、<太子>はあくまで<太子>であって、「僧籍に入った天子」あるいは「仏法に帰依した最高権力者」を意味する<法皇>と呼ばれる地位に聖徳太子があったはずはない、というのがその疑義の論拠の一つだった。

  銘文への疑義は<上宮法皇>の没年にも及ぶ。聖徳太子の没年は<日本書紀>では推古二十九年(六二一年)二月二日とされているが、銘文の<上宮法皇>の方は法興元三十二年(推古三〇年/六二二年)二月二十二日と刻んであるからだ。

  この二者を同一人物視するのはもともと無理なのだ、という主張を長年つづけている歴史学者が古田武彦氏(現昭和薬科大学教授)だ。

  では,<法興元>とは何か。
  古田氏によると、<元>が<元号>の<元>であることは明白。<法興>が<昭和>などに対応する元号の実体だ。だが、聖徳太子がその一員であった近畿天皇家が<法興>という元号を使用した形跡はまったくない。
  一方、逆算すれば、<法興>元年は崇峻天皇四年(五九一年)に当たっている。だが、崇峻天皇は翌年に殺害されている。これは元号の習慣からいえば改元されて当然の大事件なのだが、<法興>はそのまま継続して使用されている。―これは<法興>が近畿天皇家の元号ではなかったという一つの証拠ではないか、と古田氏は考えた。
  つまり、この時代に、近畿天皇家に先行して元号を使用していた者がいた、ということだ。では、それはだれか。

  江戸時代後期の学者、鶴峯戊申(しげのぶ)が<襲国偽僭考>という本を残しているそうだ。その本の中に「九州年号。けだし善記より大長にいたりて。およそ一百七十七年。其間年号連綿たり。…今本文に引所は。九州年号と題したる古写本によるものなり」と明記してあり、近畿天皇家の<大化>の百二十三年も前に当たる五二二年から六九八年までをつなぐ、総計三十六の元号が挙げられているという。
  <法興>という文字は、この九州年号の中の別系列の中に伝えられ、記録されているそうだ。

  九州には、近畿天皇家に先行して元号を制定、使用した王朝が七世紀後半まで存在していた。

  <襲国偽僭考>によると、<法興>は五九一年から六二二年までつづいている。中国の史料<隋書・俀国伝>によると、この時期の日本側の王は<多利思北孤>。従来、聖徳太子を指すとされてきた、あの「日出ずる処の天子」だ。
  だが、古田氏は、<多利思北孤>が住んでいた国は阿蘇山に近いと記されており、この<天子>が聖徳太子ではないことは疑問の余地がない、と述べている。

  <日本書紀>天智天皇の九年(六七〇年)に法隆寺焼失の記事がある。<釈迦三尊像>が光背銘文の日付、<法興>三十二年、推古三十年(六二二年)に法隆寺に納められていたとしたら、「一屋余す無し」と表現されたこの大火災で、同像も焼失していたに違いない。
  したがって、この像はもともとは九州王朝の王<多利思北孤>に捧げられたもので、九州王朝の崩壊後に、何らかのルートで、その後再建された法隆寺に運び込まれたのだ、と見るのが正しかろう、と古田氏はいう。

  多元的歴史観。―古田氏の二十年来の主張だ。
  古代史はまだまだおもしろい。

  (古田武彦<古代は沈黙せず>その他より)

------------------------------

 〜ホームページに戻る〜