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1988年10月11日

文楽南加公演



  学生時代を含めて、短くはない年月を大阪で過ごした。
  大学に入学した年に開かれた東京オリンピックは、阪急宝塚線石橋駅のそばのアパートの部屋で、一人小型の白黒テレビを抱きかかえるようにして多くの競技を観戦した。千里丘陵で開かれた一九七〇年の大阪万国博覧会では、九州からやって来た母を、延長されて間もない地下鉄を利用して会場ゲイトまで送った。
  気晴らしは梅田ですることが多かったが、たまにはなんばまで出かけた。レストラン、食堂、飲み屋がひしめく大阪ミナミの夜の活気は当時も、“京の着倒れ、大阪の食い倒れ”の看板どおり。戎橋のそばの<かに道楽>の表を飾る電気仕掛けの大きなカニのアシの動きが、この商都の健啖ぶりをこの上なく示しているように見えていた。
  道頓堀には、御堂筋から東へ順に、映画の松竹座、なにわ座、松竹新喜劇の中座、漫才落語の角座、少し離れて文楽の朝日座などの劇場が建ち並んでいた。

写真サイト:道頓堀界隈

  学生が一人で見る角座の漫才は必ずしも心楽しいばかりではなかったし、テレビ時代に乗り遅れた芸人の洒落が妙に侘しく聞こえたこともあったが、大阪がいまに伝える数百年の伝統だけは、そんな芸からも感じ取ることができた。福岡から出てきて間もない学生には、大阪はまた芸の町でもあった。

  大阪に住んでいるうちに一度は観ておきたいと思っていたものの一つに文楽があった。だが、ミナミに出ても朝日座前まで歩くことはめったになかった。いや、たまにそこまで足を伸ばすこともあったが、それは、そこを通り過ぎ、宗右衛門町の東に住む友人を訪ねるためだった。
  結局、朝日座で木戸銭を払ったことはなかった。いつでも行けると思っているうちに人生の方が急転回してしまい、その機会をなくしてしまったのだった。

  ありがたいことに、<ジャパン・ウィーク>の文楽公演を先月三十日、リトル東京の日米劇場で見せてもらった。
  当夜の出し物<曽根崎心中>は近松門左衛門の代表的世話物で、元禄十六年(一七〇三年)に大坂で起こった実際の心中事件を脚色したもの。醤油屋平野屋の手代徳兵衛が、信頼していた男に大事なカネを騙し取られ、二進も三進も行かなくなり、思い余って馴染みの遊女お初と語らい、ともに大坂キタの曽根崎天神の森で死んでいく、という物語だ。舞台では、いかにも大坂風にカネと情が深く濃く絡みあった世界が切々とした義太夫の語り、こまやかな人形の動きとなって展開していった。


「曽根崎心中」天神森の段(国立小劇場2001年5月公演 吉田玉男・左/吉田簑助・右)
(From:http://www.beats21.com/ar/A01052406.html)

  三味線を伴奏にして物語を語る浄瑠璃が操り人形と組み合わされて芸となったのは江戸時代初期のことらしい。元禄になって、作家の近松門左衛門と浄瑠璃語りの武本義太夫、人形つかいの辰松八郎兵衛らが出会ってから、人形浄瑠璃は大坂を中心にして一時代を築いたという。
  その後、政都としての江戸の比重が増すにつれ、文化の江戸化も進み、人形芝居の人気も歌舞伎に奪われていった。江戸時代後期には、人形浄瑠璃をかけるのは植村文楽軒の小屋だけという状態になってしまい、以来、<文楽>が人形浄瑠璃の別名となったそうだ。

  文楽を観てみたいと初めて思ったときから二十年以上が過ぎていた。
  「七つの鐘を六つまで、聞いて…」でひと呼吸。ゴーンとつづく鐘の音に、死にゆく二人の思いのたけを感じ取る−−。
  伝統の芸の間(ま)とはこういうものだ。たっぷりとそれを堪能させてもらった一夜だった。

参考サイト:文楽への招待

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