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1988年10月27日

朝潮太郎と玉の海梅吉



  大相撲の世界でかつて人気者だった二人が二十三日、相次いで亡くなった。

  高砂親方として現在の大関朝潮や小錦、南海竜などを育てた元横綱朝潮は、昭和三十年代(一九五五年〜六四年)に活躍した当時の巨漢力士。もみ上げを長くした相撲取りさえ見かけなかった当時、朝潮の太いゲジゲジ眉と濃い胸毛は角界でひときわ目立っていた。突っ張りと、大きな両手のひらを差し出しての“はさみ押し”が得意技だった。強いときの相撲では、相手を土俵の外に一直線で攻め落とす豪快さが光っていた。もっとも、いったん弱さを見せると、これもなかなかのもので、下位力士に情けないほど簡単に蹴落とされることもしばしばだった。そんな相撲が―特に女性の―人気を呼んでいた。


出身地の徳之島に立てられている横綱朝潮の像
(From:http://www.amami.or.jp/map/tokunosima/asa.html)

  大阪場所に強く、五度の優勝のうち四度が春場所で成し遂げたもので、“大阪太郎”の別名でも呼ばれていた。四十六人目の横綱を一九五九(昭和三十四)年夏場所から六二年初場所まで務めた。

  一九五一(昭和二十六)年にすでに現役を引退していた玉の海梅吉の相撲は直接には知らない。玉の海がNHKで相撲解説を始めたのが一九五五(昭和三十)年の夏場所。一九八二(昭和五十七)年の九州場所まで、およそ二十七年間つづけた。志村、北出などというNHKの歴代の名スポーツ・アナウンサーと組んで、中身の濃い相撲放送を楽しませてくれた。
  同時期にやはりNHKで活躍していて、先に亡くなった“解説の神風さん”の歯切れの良さも魅力があったが、玉の海のじっくりと諭すような口調にはほかでは得難い説得力があった。大相撲興隆の陰の功労者の一人だ。

  朝潮太郎と玉の海梅吉。相撲への関わり方は異なっていたが、ともに相撲界を支えた人気者だったことは疑いない。

  十一月になると、今年最後の場所、九州場所が福岡で開かれる。
  衰えが心配されながらも、横綱千代の富士の時代がつづいている。先の名古屋と秋の二場所連続全勝優勝は実に見事だった。一九四九(昭和二十四)年に一場所十五日制になってからの二場所連続全勝優勝は、六八年九州場所と翌六九年初場所を制覇したあの“巨人・大鵬・たまご焼き”の大鵬以来のことだから、これは立派だ。


横綱千代の富士
(From:http://www.tcn.zaq.ne.jp/ako/kaburi/kaburi3.htm)

  千代の富士はまた、連勝記録を秋場所で三十九に伸ばしている。三場所連続優勝、通産十五度目の優勝でもあった。“小さな大横綱”としてのちのち長く相撲ファンに記憶されるに違いない力士だ。
  相撲界はいま、横綱大乃国、大関小錦、同朝潮を代表として、巨漢力士がめじろ押しといった状況だが、千代の富士の存在なしには、現代相撲のおもしろさは半減していたかもしれない。決まった広さの土俵の外にほんのつま先だけでも先に出た方が負け。土俵の中では、指先だけでも先に土をつけられた方が負け。―この規則を持つ相撲は、柔道が体重制を採用して以来、“小さいものが大きいものを負かす”おもしろさを残している数少ないスポーツの一つだ。
  巨漢力士がますます強くなって、これをまた小型力士がくう―。

  自分自身が大型力士だった高砂親方は、いまの朝潮や小錦といった巨漢力士を育てて、大相撲に一つの時代を築いたともいえる。あるいは、それが親方の密かな誇りだったかもしれない。

  玉の海の解説には一貫して、小型力士の活躍を高く評価する姿勢があった。富士桜や旭国の敢闘と真摯な土俵態度にはいつも目を細めていたと記憶する。千代の富士の時代を角界のためにだれよりも喜んでいることだろう。

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