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1989年1月23日

指導者の視点


  各ページ上下二段組みで全四百五十ページにのぼる『モーゼと呼ばれた男 マイク・正岡』(TBSブリタニカ)と題する自伝(ビル・細川共著 塩谷紘訳)の全体像をここで紹介するのは難しい。本が自ら掲げる惹句には「アメリカの日系人受難の時代が生んだ偉大な大衆指導者の半生」とある。

  エドウィン・ライシャワー元駐日米大使によれば正岡氏は「JACL(日系市民協会)の運動を推進するに当たって終始牽引車の役割を担い、自らかの有名な442戦闘部隊の一員として第二次大戦に参戦し、かつ、戦後派ワシントンの屈指のロビイストとして目覚しい活躍をした」人物だ。この本には、ライシャワー氏によると「アメリカの日系人が十全な政治的・社会的平等を獲得するために生涯を賭し…それによって第二次大戦以後アメリカで展開されたマイノリティーの権利獲得運動の先駆者として大いなる貢献をもたらした」正岡氏の姿が余すところなく語られているといえよう。


マイク正岡(Mike M. Masaoka)
(From:http://www.lib.utah.edu/spc/photo/p544/p544.html)

  その正岡氏が、戦時の日系人収容に関して「最も非難されるべき人物」三人の名を挙げている。
  当時のカリフォルニア州司法長官で、後に知事を務め、副大統領候補にも指名され、最後には連邦最高裁判所長官になったアール・ウォーレンが最初の一人だ。
  ウォーレンは「正直で、穏健派の政治家」とみなされていたが、日系人による「破壊活動が現在のところ一件も発生していないのは、彼らが裏切りにそなえて東京の指令を待っている証拠だ」との詭弁を弄してまで日系移民の危険を喧伝して、正岡氏のリストの先頭に名を置くことになった。州内外でその信用が高かっただけに、日系人が受けた打撃は大きかったという。

  高名なジャーナリストであるウォルター・リップマンの名が次に挙げられたのは、産業界・議会の指導者や大統領との交際が深く、その記事に絶対の信頼が置かれていたリップマンが、日系人のだれ一人とも会わずに、不完全な取材のまま、日系人の強制立ち退きを支持するコラムを書いたためだ。
  全米の記者たちがこれに倣ったことは言うまでもない。リップマンは自己弁護のために後に「(日系人が)暴徒に襲われる危険があったので…心ならずも…(日系人の)隔離を求めた」という詭弁に逃れ込んだという。

 三番目のデウィット将軍は西部防衛司令部の最高責任者だった。「日本人はそもそも敵の人種なのだ」と述べる同将軍は、太平洋戦争は“人種戦争”であると信じて疑わなかった人物だったようだ。「ジャップは所詮ジャップであり、危険な人種…アメリカ市民であるかどうかは問題ではない」との発言でもよく知られている。少なくとも“十六分の一”以上日本人の血を引く日系人たちは放逐するべきだと主張したのもこの将軍だった。非アーリア系の血を“八分の一”以上持っている者を迫害したというナチよりも極端な意見だった。

  正岡氏には。ウォーレンに関する後日の思い出がある。一九五〇年に訪米してきた日本の衆議院の議員代表団が当時カリフォルニア州知事だったウォーレンに会ったことがある。正岡氏が激怒したのは、だが、ウォーレンに対してではなく代表団に対してだった。代表団が「戦時中日系アメリカ人のことでご苦労をおかけして申し訳なかった」とウォーレンに向かい、日本国民に代わって謝罪したと知ったからだった。
  「日本の人々はこの強制退去を挑発した真珠湾攻撃について、ウォーレンにではなく、一世と二世に謝罪すべきであるし、アメリカ政府にも我々にも謝罪すべきなのだ」と正岡氏は議員団に説いた。議員の多くは、戦時中に日系人が体験させられたことについては「何も知らないか、あるいは極く曖昧にしか認識していなかった」という。

  正岡氏の批判が、事実を冷静に見つめようとしない人々に対して最も鋭いことを知るだけでも、この本は一読の価値があるといえる。

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