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1989年3月23日

黄金の里


  「八つ半時ニ三ふらんせしこ(註:サンフランシスコ)いあがり候処、みなといっぱい、くものこをちらしたるごとくに見物の人、出で候なり。しかる処、金銀のぞうがん打たる馬車、五つ引きたり。それに皆々打ちのりて走るけしきハ、日本にてハ大名もおよばぬ事なり。やとや(宿屋)いまいり候なり」
  これは“幕府公認”の民間海外渡航者第一号集団の一人となった高野広八という人物の旅行日記の一八六六(慶応二)年十一月二十七日(日本暦)、サンフランシスコに上陸した日の記録だ。(安岡章太郎著『大世紀末サーカス』朝日文庫より)

  広八は翌々日の二十九日、サンフランシスコ市内の見物に出た。
  「きれいなる事、はなしにも絵にもかきがたし。家は五かい又は七かいにしてみな石ニてつみあげたる作り也。(略)なほ又、水のしかけ、火のしかけ、車のしかけ、おどろき入る也」
  広八はまた、蒸気機関車に引かれた列車には特に驚かされたらしい。「また中通り三間ほどハくるま道にて、小石ニて石たたき、また黒がねニテふたすじ(二条)あり、是ハせきたんをたきてまはす上き(蒸気)車の道なる。まことにもって、おそれ入り、見物致し候なり」

  高野広八は米国人の誘いを受け、一八六七年にパリで開催された万国博覧会に参加するために、手品の隅田川浪五郎一家、独楽回しの松井菊次郎一家、足芸の浜碇(はまいかり)定吉一家をまとめ、自分も含めた総勢十八人の軽業師一座を組んで、勇躍、米国経由で欧州公演に飛び出した男だった。
  幕末風俗史『武江年表』に、一座の海外渡航がこう紹介されているそうだ。
  「今年(慶応二年)、独楽廻し、軽趫(かるわざ)、技幻(てづま)、等の芸術をもて亜墨利加人に傭はれ彼の国へ趣(ママ)きしもの姓名左の如し。是は当春横浜に於いて銘々その技芸を施しけるが、亜米利加のベンクツといふ者の懇望により、当九月より来る辰年十月迄二年の間を約し傭はれけるよし也」

  『ピープルズ・アルマナック』によれば、一八四八年に金が発見される前のサンフランシスコの人口は約八百人だった。それが、二年後には、三万人以上に膨れあがり、五〇年九月九日にはカリフォルニアが州として合衆国に編入されている。

  福沢諭吉が木村摂津守に従って第一回の幕府米使節の先発隊の一員として咸臨丸でサンフランシスコを訪れたのは安政七(万延元)年、一八六〇年のことだ。福沢は『世界国尽』という歌を残し、そこでカリフォルニアをこう描いているそうだ。
  西に廻りて海岸の
  雁保留仁屋(カリフォルニア)は金の里
  嘉永三年事始
  はじめて州を立てしより
  人戸俄かに繁殖し
  民の稼ぎは金山の
  業のみならず牧、田畑
  百(もも)の職業忙しく
  太平洋の海岸に
  一人繁華を誇るとぞ
  広八一座がサンフランシスコに着いたのはこの歌からおよそ六年半後だ。座員一同にとって、初めて見る外国だった。
  宿泊先のホテルに備えられていたガス燈について広八は、ガスを「あかりの息」、管を「あかりの息の通ふ道」と表現して、大いに関心を示し、水道施設についても「座敷々々ニ皆まはり、同じくチョイトねぢる時ハ水をふき出す。又ねぢもどせバとまるなり」と感嘆口調で書き留めているという。

  実は、パリ万国博覧会に参加しようと、開国直後の日本を飛び出した芸人は広八一座だけではなかった。記録にあるだけでも、松井源水、鳥潟小三吉、早竹虎吉、鉄割(かなわり)福松などが幕府や各藩、各奉行が発行した旅券を手に一座を組んで海を渡っているそうだ。
  そして、そのうちの多くが米国に立ち寄っている。幕藩体制という旧時代の崩壊を日本各地を歩きながら実感した多くの軽業師たちが、初期民間人海外渡航者として、日本を開国させた国である米国を経て、大挙して文明の地パリに向かったのだった。

  米人家庭の子守として働くために、“賊軍”会津の十八歳の娘“おけい”が最初の米本土移民の一人としてエルドラド郡ゴールドヒルに渡ってきたのはその二年後、一八六九年の秋のことだった。

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