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1989年5月18日

感情論の排除


  日本が国際社会でうまくやっていくためには何がしかの変化が必要だ、という主張は、日本国内にはもちろん、外国人のあいだにも少なくない。また、外国人による日本批判に、耳を傾けるべき内容が多く含まれていることも多い。外国人の方が、日本の事情や利害関係を離れて客観的にものを見ることができる立場にあるからだろう。
  だが、たまには、日本との距離を測りかねて、的外れな日本論を展開する人物もいるようだ。「西洋から見れば日本の行動はいつも誤っていた」という少々過激な題の小論文を『デイリー・ニュース』(十五日)に寄稿したデイヴィッド・モーリス氏もその一人だ。
  モーリス氏はミネソタ州のセントポールに住む作家で、評論家。地元の新聞のために記事も書いていて、最近、十日間の日本旅行から戻ってきたところだということだった。
  同氏によると、横浜在住のジャーナリスト、ジェイムズ・ファロー氏が『アトランティック・マンスリー』誌に次のような記事を寄せているという。

  「慈善や民主主義、世界親善といった抽象的原理に対する理解が日本人には欠けている。宗教としての神道には、だれもが見て取れる行動原理がなく、聖典も教義も事実上存在していないことがその原因だろう」
  ファロー氏のこの指摘にことさら異を唱える理由はない。いちおう、冷静な社会学的考察と受け取れるからだ。

  モーリス氏の場合は違う。同氏は、ファロー氏の指摘から直ちに、「この地球上でよい隣人同士であるために必要な道徳的見識をもし日本が持ちたいのなら、キリスト教を採り入れるしかないかもしれない」と結論づけているのだ。
  モーリス氏が“日本改宗”を本気で考えているとは思えないが、この改宗論には、日本がかつて朝鮮半島で強行した“創氏改姓”を思い起こさせられるほど、独善的で身勝手な、そして危険な 論理が含まれている。日本人の倫理規範や行動原理が神道だけに左右されていると決めつけるのが早計であることも言うまでもない。

  モーリス氏は自分の日本観を次のように述べている。
  @十六世紀中ごろに銃とキリスト教を持ち込み、戦術と宗教環境の大変化を日本にもたらしたのはポルトガルだったA十九世紀後半に開国を求め、その後の日本に発展の足がかりを提供したのは米国などの西洋諸国だったB第二次世界大戦に勝利し、経済立国の指針を日本に与えたのは、やはり米国を中心とした西洋だった―など、日本史に重要な変化を与えた事件の背景にはいつも西洋の大きな圧力があった。いま、軍事力の代わりに経済力を行使して自国の保護に汲々としている日本に対して西洋諸国は、日本にはもう一度“変化”が必要であることを(力づくでも)教えてやるときではないだろうか。

  モーリス氏の日本史の勉強からは、日本が“大東亜共栄圏”構想をアジア諸国に押しつけて侵略戦争にのめり込んでいった部分が抜け落ちているらしい。同氏の“日本改宗論”にはあの“共栄圏”構想を思い返させるところがある。キリスト教という自分の尺度、西洋の基準を相手に押しつけてしまおうという傲慢さは、旧日本軍などが抱いていたものに似ている。そうした論を弄ぶモーリス氏が冷静に日本を論じているとは思いにくい。

  十五日からロサンジェルスで開かれた第二十回「日米 市長・商工会議所会頭会議」の初日、挨拶に立った松永駐米大使は、貿易問題に関して“日米両国”で表面化してきている“感情論”を排除することの重要さを強調したそうだ。

  仮に正論が一部含まれているとしても、モーリス氏の論はやはり“排除”されるべきものの一つだろう。このような感情論から有益な結論が引き出される可能性は小さい。

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