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1989年7月13日

日本の知性十六人


  宇野首相も出席してサミット(先進国首脳会議)がパリで始まった。
  サミットに臨んだ日本の歴代首相は―意図してそうしたかどうかはともかく―それぞれにその持ち味を出して、外から眺める者の目を楽しませてくれたものだ。中曽根首相のレーガン大統領への“にじり寄り”。竹下首相のなぜか“不安げな目つき”。
  宇野首相にとっても、その“口八丁手八丁”といわれるほどの多芸多才ぶりを各国首脳に披露して“日本に宇野あり”を印象づける絶好のチャンスだったのだが、元芸者とのスキャンダルが先行してしまって、せっかくの機会を自ら潰してしまった。   「愛人をカネで買った宇野首相がサッチャー英国首相にどんな顔をして会うかが楽しみだ」との、いささか不謹慎な“期待”さえ生まれていたほど、同首相の立場は悪かった。

  その宇野首相の“ピンク騒動”を「当代一流の知性十六人に縦横に論じてもらった」というおもいしろい企画が『週刊朝日』(六月三十日号)にあった。
  ただし、“おもしろい”というのは「当代一流」とされた十六人の「知性」の方だ。対象となっていた話題が「恥かき宰相の耐えられない低俗」だったせいか、「知性」の方にもいくらかおかしな輝き方が見られたようだ。

  飯沢匡氏(劇作家)「日本は儒教の国―儒教では子孫を増やすことが美徳―日本では西洋式ピューリタンの考えは一般的ではない―今回の事件は東洋の儒教とピューリタン精神のぶつかりあいだ」
  この意見が“おかしい”のは、第一に、仮にピューリタン精神からだったにせよ、米紙の報道があったことが「今回の事件」ではないからだ。宇野氏が「子孫を増やす」ためにこの元芸者という女性を愛人にしたとも思えない。宇野氏の愛人問題は「儒教とピューリタン精神のぶつかりあい」とは無関係だ。


飯沢匡氏
(From:http://www.ntv.co.jp/omo-tv/02/0010/1009.html)

  佐伯順子氏(帝塚山学院大 「遊女の文化史」著者)「“芸者”という職業をえらんだのも“指三本”の申し出をOKしたのも彼女自身―その責任をタナ上げにして倫理問題を持ち出すのはずるい―芸者の日本史における位置づけについて無知なままゲイシャを論じる海外の一流紙も困りもの」
  芸者の日本文化史上の「位置づけ」が問題であるなら、責められるべきはまず、その外国人の「無知な」ゲイシャ観をそっくり裏打ちするような行いをした宇野氏で、「海外の一流紙」ではない。日本の最高権力者である現首相と一元芸者の責任を同列に論じるのは「ずるい」。元芸者一人がずるくても国が揺らぐことはないが、首相がずるいと国民が困ることになる。

  西部邁氏(評論家)「当の関係相手が首相になったことをいいことに、新聞社に話を持ち込み、何事か企むのはゲス根性―まっとうな庶民感覚からは遠い―欧米諸国はいま日本を貶めるため、スキャンダルとあれば、何でも飛びつく」
  米国に関する限り、報道機関が日本の情報を欲しているのは疑いないところだが、それを「貶めるため」ととるかどうかはその人物の世界観の問題だ。カネで芸者を自由にしようという「まっとうな庶民感覚からは遠い」宇野氏の「ゲス根性」に触れないのも西部氏の世界観の表れなのだろう。


西部邁氏
(From:http://justice.i-mediatv.co.jp/)

  山本夏彦氏(コラムニスト)「芸人の芸はその出来ばえで評価すればいい―政治家は業績を見て私行を問わない―問うたら政治家はいよいよ払拭して一人もいなくなる―人はみなケチで助平である」
  山本氏自身の「私行」と(ケチで助平な)性向はどうであれ、私行を問題にしたら政治家がいなくなるというのは、宇野氏を弁護するための論にしても、強弁が過ぎる。また、芸人が持っているのは大衆に対する“影響力”であって“権力”ではない。権力の乱用を避けるために、政治家の私行が、芸人とは異なり、ある程度問われるのは当然だろう。

  数人だけを見て十六人全員の「知性」を推し量ることは慎むべきだが、「当代一流」の現状がこれでは、いささか寂しい気がしてならない。

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