====================


1989年7月31日

『マルサ』をほめる


  伊丹十三監督の映画『マルサの女A』(A TAXING WOMAN'S RETURN) の評判がいい。


伊丹十三監督
(From:alltheweb.com)

  『ロサンジェルス・タイムズ』の文化欄でもニ十日、女性批評家シーラ・ベンソン氏がこの映画を取り上げ、この作品により「伊丹監督は現在活動中の映画人の中で最も手厳しい社会風刺家と評されることになるかもしれない」と書いて、同監督の今後に大きな期待感を表している。
  ベンソン氏はまた、<リクルート>事件などのスキャンダルに覆われた日本の現状に触れたあと、「映画監督がいちばん刺激的に見えるのは、何かに激怒しながら、しかも手元の攻撃手段を完全に制御しているときだ」と述べ、この映画が日本の社会的、政治的上層部での腐敗への怒りを表現しながら、一方で機知と陽気さを失わずにいる点を特筆して、伊丹監督の力量を高く評価している。

  『マルサの女』が@とAを通して描いているのは、脱税者と国税庁査察官との間に展開される知恵比べに似た戦いだが、『@』の脱税者がパチンコ屋や“ラブ・ホテル”の経営者など、社会の階梯を何とか這い上がろうとしている“庶民”だったのに対して、査察官板倉涼子(宮本信子)が今回『A』で対決するのは、税法上の特権が集中している<宗教法人>だ。『@』ではドロドロしいほど人間くさかった脱税が、今度は、いささか乾いた“組織犯罪”に変わっている。
  宗教活動の名の下で裏商売として“地上げ”に励む脱税者とそれを囲む利権構造とに挑む査察官の戦いは、なるほど、ベンソン氏が言う「社会的、政治的上層部の腐敗」に何者かが挑戦している姿に酷似しているかもしれない。摘発された宗教法人の所有者・鬼沢鉄平(三国連太郎)に国税庁の取調室で“地上げ”の経済効果と社会的意義を力説させたとき、伊丹監督がこの脱税者を「日本の構造悪」を体現する存在として描きたかったのだ、と見る者がいても無理はない。
  だが、伊丹監督の意図をそこに限定してしまっては、この映画が十分に楽しめたとは言えないだろう。

  数年前に『マルサの女』(@)を観たあと身近の友人たちに「この映画は、ここ二十年ばかりの間に作られた日本映画の中の最高傑作だ」とふれ回ったことがある。独断を承知で「楽しめるという点では、黒澤明監督の『七人の侍』に匹敵するものだ」とも告げた記憶がある。

  社会の本流からわずかに外れたところで演じられる生活劇の凄まじさを何の衒いもなく、真正面から戯画化して描いて見せた『マルサの女』の娯楽性にはそうした評価が与えられていいはずだった。スピード感にあふれた話の展開、山崎努、津川雅彦、小林桂樹といった俳優陣の達者な演技、スリリングな音楽などがまた、娯楽作品としての水準を高めていた。

  『マルサの女A』に日本社会に対する風刺を見るのはいいだろう。だが、この映画を、公的な怒りを種にでき上がったものだ、と決めつけるのは間違いだろう。登場する小悪人、脱税者たちの性格に伊丹監督が与えているある種の“優しさ”を見ると、それが分かる。
  伊丹監督が第一級であるのは、この時代に、面白い娯楽作品を追求すれば自然に、現代社会の構造悪と人間の欲に触れざるをえないということを熟知してこの映画を製作、監督したことにある。―その逆ではない。
  『マルサの女A』は、気の効いた皮肉を社会構造に対して言ってみようなどというあからさまな意図を持たなかったことで、かえって、その質を高く保つことができたと言える。

  『ロサンジェルス・タイムズ』の分類では、この映画は<成人向き>だ。性場面や残酷さを嫌う人々の評価は少し下がるかもしれない。

------------------------------

 〜ホームページに戻る〜