====================


1989年12月29日

流血の変革


  ルーマニアのチャウシェスク前大統領が二十五日、第一副首相を務めていたエレナ夫人とともに銃殺刑に処せられた。二十一日に政権の座を追われ、国外へ逃亡するところを二十三日、新政府支持に回った国軍に捕らえられていたもので、秘密軍法会議が二十五日に下した死刑宣告からほとんど間がないうちの死刑執行だったらしい。
  チャウシェスク失脚後も、首都ブカレストだけではなく、各地で国軍への抵抗をつづけていた同氏親衛隊、治安警察軍などの戦闘意欲をもぎとるための即決断行だったと見られている。

  民主化と変革を求める国民の声がルーマニアでも大きくなって以来、治安警察軍などが殺害した国民の数は、ティミショアラの四〜五千人を含め、全国で数万人に上るとの報道がある。チャウシェスク政権崩壊を実現させ、同夫妻の死刑を執行した救国戦線評議会が掲げた<罪状>の中には、国民<六万人の殺害に関与した>との項目があった。
  チャウシェスク氏が生存しているあいだは、忠誠部隊が抵抗をつづけ、国民の犠牲はさらに大きなものになっていただろう、との見方も簡単には否定できない。
  だが、公開の場で裁かなかったことは、ルーマニアの今後のためには惜しまれる。改革がこのあとどう展開しようと、前大統領に対し秘密軍法会議で死刑を宣告し、即刻処刑した国として、世界が長く記憶することは間違いない。
  ポーランドを先頭に、ハンガリー、東独、チェコスロバキア、ブルガリアと<無血>状態でくり広げられてきた東欧の変革は最後で、国民と旧指導者の双方に予想外の犠牲を出すことになってしまった。

  東欧での変革の基調を整えたのは、言うまでもなく、ソ連のゴルバチョフ最高会議議長だ。同議長は一九八七年五月、共産党書記長としてルーマニアを訪問している。ソ連での変革の重要さを説明し、ソ連型変革を拒否していたチャウシェスク大統領に再考を求めるためだったとされている。
  ゴルバチョフ議長はこのときの演説で、ソ連に縁故主義(ネモティズム)がはびこった時期があると述べて、夫人をはじめとする身内重視の人事で体制を固める同大統領を間接的に批判したが、同大統領は逆に<内政不干渉>の原則を強調して、同議長とは一線を画する姿勢を明確にしていた。
  数万人と言われる国民の殺害とチャウシェスク氏自身に対する銃殺刑に到る不幸な道は、そのとき敷かれていたのかも知れない。
  ルーマニアではその後、八七年十一月にはブラショフで数千人規模の食料要求デモが発生した。八八年三月には、ハンガリー系住民が北部トランシルバニア地方で、農業改造計画に反発する動きを強めた。ことし二月には、ハンガリー外務次官が「人権と基本的自由が大きく侵害されている」と、ルーマニアを公然と非難した。
  チャウシェスク大統領が東欧各国に向け、ポーランドの民主化運動への共同介入を呼びかけて拒否されたのは八月だった。同大統領は十月には、東欧の改革派諸国を非難、東欧圏内での孤立を自らいっそう顕著にしてしまっていた。そして、十二月十五日、ティミショアラで民主化要求デモが発生した。

  長期政権がしだいに<腐敗の構造>化するのを避けるのは容易ではない。独裁下ではなおさらだ。ルーマニアの流血の変革は、改めてそのことを教えてくれた。

------------------------------

 〜ホームページに戻る〜