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1990年3月14日

リトアニア独立宣言


  バルト海沿岸のソ連・リトアニア共和国の最高会議が十一日、<最高会議の権限に関する宣言><国家再興に関する決定><一九三八年憲法復活に関する法><国家と国章の変更に関する法>を採択し、事実上の対ソ<独立宣言>を行った。
  <独立宣言>はまず「リトアニアは一九一八年二月十六日、国民の決定で(帝政ロシアよりの)独立を達成し、国際社会の完全な一員として四〇年六月十四日まで主権を行使した」と宣言し、次に「四〇年六月十五日、ソ連は暴力と侵略によって国家の主権を抑圧し、不法にソ連邦に併合した。国民は抵抗を継続したが、ソ連軍はリトアニアの国家機構を破壊した」と述べ、リトアニア人が進んで自ら併合を承認した事実はないとの姿勢を明確に示した。
  <宣言>はそれにつづいて<一九一八年二月十五日の独立決定と民主国家復興に関する議会決議>の有効性を強調、この決議を<リトアニアの憲法基盤>とすることをうたい、「リトアニアの領土は保全され、他のいかなる国の憲法も領内では機能し得ない」とし、ソ連憲法の適用をはっきりと拒否している。
  また、国名については、従来の<リトアニア・ソビエト社会主義共和国>から<リトアニア共和国>に変更すること、国章とシンボルは、ソ連への併合前のものに戻すことを決めている。

  エストニア、ラトビアとともにリトアニアは第一次、第二次大戦、そして一九一七年に起きたロシア革命に大きく振り回された。
  ドイツでヒトラーが台頭するにつれ、中間地域であるバルト三国の重要性が高まり、ソ連は三国併合に動き始めた。併合を実現したのは三九年。ドイツと不可侵条約を結んだ際の<秘密追加議定書>でソ連は、バルト海沿岸諸国の大部分を勢力下に置くことに成功した。
  三国の国会は、第二次大戦が始まったあとの四〇年七月、進駐ソ連軍の圧力の下でソ連加入を決議した。
  ―リトアニアが今日、当時のソ連邦加入を無効とするのはそうした事情があったからだ。

  リトアニアは人口三百六十四万。住民はリトアニア人が八〇%。ほかに八・九%のロシア人、七・三%のポーランド人が住んでいる。

  『時事通信』によると、ゴルバチョフ・ソ連最高会議議長(共産党書記長)は十三日、リトアニアの<独立宣言>について「<正当性も権限もない>と非難するとともに、リトアニア側が要求した独立交渉を明確に拒否した」という。交渉拒否は「同議長が分離・独立を認めない強い決意を表明したもの」だとされている。

  十三日の『ロサンジェルス・タイムズ』の社説はリトアニアの<独立宣言>について「すばらしいことだ。だが、どうかゆっくりと進めて」という論評を行った。リトアニアの「非植民地化、できあがっている対ソ経済・軍事関係の変更には時間がかかるだろう」との見方で、独立は「言うは易し、行なうは難し」だと述べている。

  ソ連はいま、連邦に加入している共和国の離脱手続きの立法化作業に入っている。最高会議にかけられる法案の内容は@連邦離脱のための共和国での国民投票は投票率七五%以上で成立A全有権者の三分の二以上の賛成が必要Bソ連最高会議と人民代表会議で三分の二以上の賛成が必要C五年後の人民代表会議で三分の二以上が賛成して離脱が最終決定、という厳しい内容だ。
  それに対しリトアニアは、共和国のソ連併合がもともと不当なものだったため、離脱法が成立してもそれには拘束されない、との考えを示している。
  ソ連の初代<大統領>の就任したあとのゴルバチョフ氏がどう対応するか。間違えば、ペレストロイカ計画が台無しになってしまう可能性も否定できない。

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