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1990年4月16日

入園申し込み


  幼稚園は佐賀で通った。戦後間もない一九五〇年代の初めのことだ。
  佐賀県庁の役人だった父が官舎住まいを始めることになり、家族は佐賀城址と佐賀神社に近い城内の住まいから、城址を北、南、西の三方向から取り囲むお濠の西の外、竜泰寺という寺のそばに引っ越した。
  官舎は、元は高級な武家の屋敷でもあったのか、母屋の南の広い庭には池が二つ掘られていた。北側には納屋に似た建物と別棟の官舎が一戸すでにあったほか、敷地の北西の隅には、後にもう一棟建てられるだけの余地もあった。大きな母屋は東西二つに仕切られており、父と家族は、一部屋が建て増されていた西側半分に住むことが許されたのだった。

  移った先でも、遊び友達はすぐにできた。一人は名を原田くんといった。同じ敷地内の別棟官舎に住む男の子だった。原田君は暮らしの中にわたしが知らない世界を持っていた。幼稚園だ。原田くんが肩から斜めに提げた幼稚園の小さなバッグがひどく輝いて見えていた。
  とはいえ、毎朝、精(しらげ)町にある幼稚園に歩いて出かける原田くんを羨ましく思って見送ったという記憶はない。原田くんが通い始めると間もなく、幼稚園まで彼と同行することにしたからだ。
  毎日そうしたかどうかは覚えていない。だが、同行した日には、原田くんが幼稚園の教室に姿を消したあとも、すぐには引き返さなかったと思う。園内の南の隅にあったブランコに揺られながら、教室から聞こえてくる歌などにしばらく耳を傾けていたことなどを覚えている。

  何が気に入ってそうしていたのか、桜が咲くころに始まったと思われるこの習慣は、そのまま秋までつづいたらしい。そのくせ、後に母が言ったところでは、わたしは「ぼくも幼稚園に行きたい」とは、なぜか一度も言い出さなかったそうだ。
  そんなところを見込まれたのか、呆れられたかの区別はいまでもつかない。ともかく、「ここまで通いつめた子だ。いっそ入園させたらどうだろう」という話が幼稚園側でまとまったことだけは確かだ。秋のある日、後に担任になった渋谷先生が「幼稚園に入る?」とわたしに尋ねかけてきたのだから。

  「あした、これに書いてもらって来なさい」と手渡された白い一片の紙が自分にとって大事なものであることはすぐに理解できた。手にしっかり握ったその紙―入園申し込み用紙―が何だかいまにも破れそうな気がして、家までの道がずいぶん長く思えた。
  翌日、わたしは道の世界、幼稚園の中の子になっていた。

  兄が通っていた城内の新道幼稚園に半年後にはわたしを入れるつもりだった両親は、ことの展開に驚いたに違いない。だが、わたしが成人してからも、折り理触れてはこの出来事を思い出した母はいつも、「幼稚園に、それも途中で、入園するなんてことを自分で決めてくる子はまずいないだろう」と目を細めるだけだった。「あなたは小さいときから変に手のかからない子でね…」という感想が決まってそれにつづいたものだった。

  わたしがこちらに住むようになってからも、父を話し相手にして母はまだ、たまには四十年前のあの出来事を思い返しているかもしれない。広大な太平洋を思い浮かべて「あの子はもともと何でも自分で決める子だったから…」と、たぶん、いぜんとはいささか異なる感慨にふけりながら。

  どうということもなかった出来事が、時の流れの中で、新たな意味を帯びて見えてくることがある。

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