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1990年5月21日

政治利用


  盧泰愚韓国大統領の訪日が近づくにつれて、日本による韓国の植民地支配に対する謝罪問題が緊張度を加えている中で、海部首相は十七日、衆議院予算委員会に出席し、「日本が歴史上犯した過ちについて反省し、朝鮮半島を含むアジアの諸国民に多大の苦痛と損害を与えたことを強く自覚している」と述べ、「私が盧大統領に、謙虚に反省している気持ちを、率直に申し上げる」と断言した。
  海部首相のこの発言は、歴代首相の意味不明な“口ごもり”に比べてかなり明瞭なところが評価できる。

  自民党の中に<天皇陛下を政治の場に巻き込むのはよくない>との大合唱が起きている。合唱の拠り所は日本国憲法だ。憲法は、天皇は「国政に関する機能を有しない」と定めている。自民党はこれを<象徴天皇は政治的発言ができない>と解釈し、合唱の声を高めているというわけだ。

  だが、盧大統領の訪日の際に、過去の植民地支配に関して天皇が陳謝するよう韓国側が求めていることが直ちに<天皇を政治に巻き込む>ことに当たるかどうかについては検討の余地がある。<天皇を政治に巻き込んでいる>のは、むしろ、自民党あるいは自民党内の一部議員ではないかという疑問があるからだ。
  <日本帝国のかつての栄光>を懐かしむ勢力が自民党内にあることは間違いない。教科書改訂のたびに文部省ととも、旧日本軍によるアジア侵略の事実を打ち消そうとしてきたことがその証拠だ。天皇の<かつての栄光>にキズがつくことを恐れる勢力が、自らの<政治的>判断で<象徴天皇>論を持ち出し、陳謝を拒もうとしているという可能性は高い。韓国側に対し「これ以上、土下座する必要があるのか」と語った小沢幹事長もこの勢力の一員だ。
  小沢幹事長の<土下座>発言は、歴史認識を正確にしていれば出てくるはずがない類のものだ。日米貿易摩擦で軽々しく<アメリカ人の傲慢>を責め、国際政治への無理解振りを暴露したことにつづいて同幹事長は、自分の政治感覚が個人的な感情レベルにとどまっており、未来に開かれた国際関係を捉えるのに適していないことを再び自ら証明してしまったといえよう。
  <天皇を政治に巻き込むな>と言いながら、日韓関係の健全化を二の次にしてでも自分の<政治的>信条や主義、感情をなんとか守ろうとすること、天皇を政治家の責任逃れに利用しようとすること以上に<政治的>な行為はない。
  韓国世論がどちらかちいえば執拗に<天皇の陳謝>を求めるのは、自民党内のこうした気配を感じ取っているからに違いない。

  海部首相も「陛下を政治的に利用してはならない」と強調している。だが、「利用してはならない」という意見そのものがずでに政治の泥にまみれきっているのだから、首相の判断がそこにとどまるのは許されない。
  国会が国権の最高機関として、また、首相が行政府の代表として、正式に、明確に韓国国民に対して反省の姿勢を示し、謝罪することが第一だ。国会と政府が真摯な態度を示すことができれば、<天皇の謝罪>をどうすべきかは自然に決まるはずだ。
  <天皇の謝罪>は本来、国際倫理の問題だ。それを<政治の問題>にしてしまったのはだれか―。答えはすでに明らかだろう。

  たどり着くまでに長い年月がかかったとはいえ、日系人の戦時収容について米国とカナダの議会と政府が行った反省と謝罪を見たばかりの目には、「不幸な過去に心痛む思い」などという自民党の<お言葉>案はまるで他人事を論じたものであるかのように見える。
  日系人への謝罪で米国が国としての尊厳をおおいに回復したことを、自民党あるいはその一部党員は、どうやらまだ学んでいないらしい。

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