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1990年6月18日

東欧の自由選挙


  ポーランド〜東独〜ハンガリー〜ユーゴスラビア〜ルーマニア〜チェコスロバキアとつづいてきた東欧での議会選挙が、十日に行われたブルガリアを最後にいちおう終了した。
  ブルガリアでは昨年十二月十一日、共産党(現・社会党)中央委員会総会が@党の指導的役割条項を憲法から削除するA複数政党による自由選挙を一九九〇年五月末までに実施するB同年末までに新憲法を制定する―などの方針を決めていた。十日に投票が行われた今回の議会選挙は、この方針に従ったものだ。

  第二次世界大戦後の四十数年間、政権を維持してきた各国共産党の後身は、東独の<民主社会党>が定員四百議席の一院制議会で六十六議席獲得しただけで第三党に転落したのをはじめ、ハンガリーでは<社会党>が一院制議会三百八十六議席中三十三議席を、チェコスロバキアでは<共産党>が定員三百五十席の二院制議会で一〇%の得票率を獲得するのが精一杯という状態だった。ルーマニアにいたっては、旧党は解体し、立候補者を出すことさえできなかった。
  ブルガリア議会は全四百議席の一院制で、個人が議席を争う<小選挙区>と政党同士がが争う<比例区>に二百議席ずつが配分されている。選挙の結果について『ロサンジェルス・タイムズ』は十二日、「(ブルガリアは)比較的よく組織された公開の選挙で、組織替えした共産党に再び権力を与えた(東欧)唯一の国となった。同国選挙管理委員会が二回目の集計結果を発表した十四日の時点で、<社会党>は確定三百十九議席のうち百七十二議席、五四%を獲得している。比例区のでの得票率は四七・一五%で、<民主勢力同盟>の三六・二〇%、<農民同盟>の八・〇三%を押さえている。
  ブルガリアでの<社会党>勝利に理由を『LAタイムズ』は「首都(ソフィア)の有権者は野党グループの<四十五年間で十分だ>とのスローガンを支持したが、地方の有権者や高齢者は未知の世界に飛び込むことよりは、これまで馴れ親しんだ政党の方を選んだ」と分析している。

  ブルガリアの反<社会党>勢力は現在<民主勢力同盟>としてまとまっている。八九年二月に生まれた自主管理労組<支持>、同年十一月に結成された人権擁護団体<ヘルシンキ監視委員会>などが母体となっており、自由選挙の実施、複数政党制の導入などについて、これまで旧共産党系指導者と交渉を重ね、成果をあげてきたが、ポーランドのワレサ<連帯>委員長や、チェコスロバキアのヘベル現大統領といった目だった指導者がいなかった。今回の選挙でブルガリア国民が<社会党>支持を決めた理由の一つは<民主勢力同盟>側に強力な“新しい顔”がなく、これといった方向性を示すことができなかったことにあると思われる。

  そのブルガリアを例外として、東欧諸国の旧共産党は、それぞれの議会自由選挙を経て、少数派に転落するか、壊滅するかぢてしまった。
  だが、共産党を追い落とした後の国内事情はいずれも<平坦>というわけにはいかないようだ。
  クロアチア共和国議会選挙で右派民族主義政党<クロアチア民主同盟>が議席の七九%を独占、共産党支配体制を根こそぎに転覆させたユーゴスラビアでは、同同盟が隣のボスニア・ヘルツェコビア共和国の“領土”をクリアチアのものだとする主張を再燃させ、民族対立の火に油を注ぎ、不穏な空気を煽っている。
  ルーマニアでは十三日、チャエセスク政権を倒した<救国戦線評議会>政府に反対するブカレスト市民数千人が国営テレビ局や警察本部を襲撃する事件が発生した。
  <東欧の民主化>と一言で表現するには、それぞれの国の事情は異なりすぎているようだ。

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