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1990年6月21日

ミャンマー


  ビルマのソウ・マウン国家法秩序回復評議会議長が率いる軍事政権は昨年六月十八日、国名をミャンマー連邦と変更した。旧国名は、国内最大多数派であるビルマ族(六九%)にちなんで旧宗主国の英国が採用したもので、シャン族(八・五%)やカレン族(六・二%)といった他の民族の不満の対象となっていたという。
  同政権は八八年六月の民主化要求運動などを受けて八九年二月十六日、十五か月後のことし五月に総選挙を実施する方針を発表しており、国名変更によって、少数民族の不満を和らげることで選挙戦を少しでも有利に戦いたいとの考えもあったと思われる。

  ミャンマーは一八八六年に英領インドに編入され、英国の植民地となった。第二次大戦の直前に独立運動家三十人が日本に渡り、軍事訓練を受けて、四一年、日本軍の侵攻とともにビルマに入り、独立軍を指揮、英国軍と戦った。この中には、後に将軍として長期軍事政権を敷くことになるネ・ウィン氏も含まれていた。
  だが、独立軍内の民族主義者たちは、英軍に代わる日本軍の支配に反発して抗日運動を開始し、日本敗戦後の四八年、交渉の結果、英国から完全独立を勝ち取った。

  ネ・ウィン将軍がクーデターを実行してウ・ヌー政権を倒したのは六二年三月だ。同将軍は革命評議会を設置、独裁体制を築き、同年七月、ビルマ社会主義計画党(BSSP)を結成して、一党支配を確立した。同将軍は八一年十一月、大統領と国家評議会議長の職から引退したが、BSSPの党首の地位にはとどまり、事実上の“院政”を敷いた。

  <ビルマ型社会主義>と呼ばれるネ・ウィン長期独裁体制が残したのは、だが、国内経済の崩壊だった。イラワジ川の下流一帯は世界有数の穀倉地帯といわれるが、国民の暮らしぶりは国連が八七年に<最貧国>認定を行っていることからも想像できる。
  八六年の一人当たりの国民総生産は二百ドルだった。日本への“出稼ぎ”で知られるパキスタンは三百五十ドル、フィリピンは五百七十ドル、タイは八百十ドルだ。アジア諸国の中でミャンマーより小さいのは百六十ドルバングラデシュぐらいだ。

  八八年になると、ネ・ウィン“院政”に対する学生などの不満が爆発した。これを受けたネ・ウィン氏の完全引退にもかかわらず、八月には首都ヤンゴン(旧ラングーン)など各地でゼネストが行われた。この混乱を利用して同年九月に軍事クーデターで政権を掌握したのがソウ・マウン国防相兼参謀総長(現・首相・外相・国防相)が率いる国家法秩序回復評議会だった。

  ミャンマー民主化運動の象徴的存在は、独立運動中の四七年に暗殺された<建国の父>アウン・サン将軍の実娘アウン・サン・スー・チー氏だ。元国防相で現在服役中のティン・ウ氏を議長とする全国民主同盟(NLD)の総書記長を務めているが、八九年に民主化運動が再燃すると、七月、ソウ・マウン政権によって自宅に軟禁された。
  そのソウ・マウン政権が五月二十七日、公約どおりに議会選挙を実施した。だが、同政権が“信任投票”にしたかったこの選挙で、国民はスー・チー氏のNLDに圧倒的な支持を与えた。六月十七日までに判明したところでは、全四百八十五議席のうち四百三十九議席がすでに決まり、同連盟はそのうちの三百八十一議席を占めている。

  ミャンマーでは今後、選挙で多数派となったNLDが新憲法を起草し、それに基づいて政府を構成する手はずになっている。だが、この新政府に政権を移譲すると公言してはいるものの、ソウ・マウン軍事政権はスー・チー氏の軟禁解除と、服役中のティン・ウ氏の釈放はまだ行っていない。
  独立後四十二年。ミャンマーの民主化が実現するかどうかはまだ予断を許さない状況だ。

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