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1990年8月14日

中東の軍事大国


  ・8月2日 戦車三百五十台を中心としたイラク軍が夜明け前、突如クウェートに侵攻、首長の宮殿や政府建物などを占拠した。直後にフセイン・イラク大統領は「クウェート政府は打倒された」と発表した。ブッシュ米大統領はイラク軍のクウェートからの即時撤退を要求し、「米国はあらゆる対抗手段を検討している」と述べた。

  ・8月3日 米国政府はイラク軍のクウェート侵攻を「あからさまな侵略」と非難、米国内のイラク政府資産をすべて凍結し、イラクからの輸入のほとんどを禁止した。ブッシュ大統領はイラクを国際的に孤立させるよう訴えた。イラク軍はクウェート軍と交戦する一方、サウジアラビアとの国境油田地帯に集結した。イラク軍の侵攻直後にサウジアラビアに逃れていたクウェートのジャビル首長はラジオ放送で、自国の奪回宣言を行った。緊急米ソ外相会談が行われ、イラクへの武器輸出を停止するよう全世界に求めた。イラクは二日以内にクウェートから撤退するとの声明を出す一方、サウジとの国境への兵力増強をつづけた。

  ・8月4日 クウェート・ラジオ放送は、閣僚九人からなる暫定政府の樹立を伝えた。これに対し、国外のクウェート政府関係者は「九人はすべてイラク人だ」と反発した。欧州共同体(EC)がイラクとクウェートからの石油の全面輸入禁止を決定し、侵攻に対する制裁措置として、イラク政府への武器や軍需物資の輸出を停止、EC各国内のイラク資産の凍結し、さらに貿易・軍事取り決めの効力停止を決め、クウェート資産を保護すると発表した。

  ・8月5日 撤退すると公言していた「二日後」が来ても、イラク軍はクウェート占領をつづけた。ブッシュ大統領はチェイニー国防長官をサウジアラビアに送り、イラク軍によるサウジ攻撃に備え、米軍のサウジ派遣を承認するよう求めさせた。

  ・8月6日 国連安全保障理事会がイラク、イラク占領下のクウェートに対する財政援助と貿易のボイコットを決定した。米英二か国が、国連の経済制裁決議を確実に実行するためにイラクに対する国際的封鎖活動を行う用意があると発表した。チェイニー国防長官がサウジのファド国王と会談、防衛戦術を協議した。米空母<インディペンデンス><アイゼンハウワー>が中東に到着、イラクを取り巻く米軍艦船の数が三十四隻となった。

  ・8月7日 第82空挺師団などの兵員のサウジへの派遣をブッシュ大統領が命令した。自国領内を走るイラク油送管の封鎖をトルコ政府が決定、イラク石油の東地中海からの積み出しを停止させた。サウジが石油増産を約束し、高騰していた石油価格が低下した。

  ・8月8日 ブッシュ大統領が午前、テレビ演説を行い、サウジへの派兵を正式に発表、防衛が目的であることを強調する一方、イラクのフセイン大統領に対し、クウェートからの即時撤退と正統政府の回復を求めた。これに対しイラクは、イラクとクウェートの国家統合を宣言した。

  ・8月9日 英国が戦闘機部隊をサウジに派遣した。

  ・8月10日 アラブ首脳会議が二十年ぶりに開かれ、イラクの侵攻を非難、クウェートからの即時撤退を求め、サウジへアラブ合同軍を派遣することなどを賛成多数で決めた。イラクとリビア、パレスチナ解放機構(PLO)は反対、ヨルダンが態度を保留した。

  ・8月12日 食糧消費を半分に抑えるなどの「耐乏生活」を国民に求める声明をフセイン大統領が発表した。

  イラクの一人当たりの国民総生産は一九八八年、わずかに千九百五十ドルだ(CIA推定)。これに対しクウェートは同年、一万三千六百八十ドル、およそ七倍だった。長期にわたる対イラン戦争を戦ったイラクの<国防費>は国民総生産の四二%にも達していた(一九八四年)。表向きの大義名分が何であれ、豊かな国クウェートへの侵攻の動機の一つが“カネのなる木を取り込む”ためだったことは明らかなようだ。

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